原田芳宏インタビュー[後半] インタビュアー:大石始
vol. 2 2015-06-30 0
2015年8月、憧れの舞台、インターナショナル・パノラマへ
結成当初のパノラマスティールオーケストラ
スティールパンが発明されてから75年、スティールパンの大会〈Panorama〉が始まってから50年という歴史的な年となる2015年、トリニダードではインターナショナル・パノラマ(〈International Conference and Panorama 2015〉と題された前代未聞の大会が初開催されることなった。世界各地からパン・バンドが招聘されるが、その数は実に30(うち12がトリニダード)。これだけの規模の世界大会が開催されるのはスティールパンの歴史においても初めてのことだという。
「スティールパンの文化は今や世界的な広がりを持っているんで、そこで活躍しているリーダーたちを各国から集めて、カンファレンス(会議)をやろうということだったんです。そこで世界的なパノラマのコンペティションの第一回もやろうと。
ただ、ひとつのパン・バンドのメンバーは40~60人という規則があって、それ以上多くても少なくてもいけない。加えてスタッフも必要だし、ものすごい大所帯になるんですね。それと、楽器の手配も大変なんです。楽器は向こうで貸してもらうんですけど、違う楽器になるとまったく演奏できなくなるぐらい繊細なものなんです。そこまでのことをすべてクリアできる団体って世界的にもなかなかないんですよ」
アジア最高峰のパン・バンドであるパノラマスティールオーケストラのもとにも早い段階から出演オファーがあったというが、当初はメンバーがなかなか集まらず、最小人数の40名にも達しないかと思われた。だが、かつてパノラマスティールオーケストラで腕を磨き、現在は自身のパン・バンドを率いる日本のトップ・プレイヤーたちもふたたび参加。そのうえ、かねてからパノラマスティールオーケストラに憧れていた一般公募のメンバーも加わり、参加メンバーはあっという間に上限の60名に達した。原田も「歴代のメンバーが集まってて、まるで同窓会みたいになってる(笑)。嬉しいし、いいものだなと思います」と嬉しそうに笑う。
「パノラマスティールオーケストラを始めた段階で、トリニダードを追いかけていたわけじゃないんですね。それは否定的な意味ではなくて、ここ(日本)で生きていながら、トリニダードで生まれた楽器を愛している人間が集まって、自分たちの音楽を世界に発信していこう、音楽で世界の人たちとコミュニケーションを取っていこう、そういう目的が結成の段階からあったんです。この世界大会はまさに自分たちが追い求めていたものにピッタリ合致しているし、そのステージで〈これが私たちです〉という演奏を聴かせたい。すごく楽しみですよ」
ニューヨークでひとりのパン奏者と出会ったところから一気に広がり始めた原田の音楽人生は、いまや世界的な規模のものとなりつつある。
だが、しかし――原田は重大な病を抱えている。病名は白血病。そのため、インターナショナル・パノラマにかける思いも並大抵のものではない。
「一時、病気もすごく悪かったんですよ。遺伝子治療の薬が数年前に認可されたので今生きていられるんですけど、それが認可されていなかったら、骨髄移植をするか死ぬか、どちらかしかなかった。当時はライヴをやるときも〈これが最後になるかもしれない〉ということで毎回録音してましたしね。もらった命ですし、今の自分にしかやれないことがあるんだろうなと思ってます。
ただ、今は普通の生活を送れる程度に体調はいいんですよ。日光がダメだったり長時間歩けなかったりいろんな制約があるので、トリニダードに行くことに対して不安がないことはないんですけど、やる気満々。ガッツ出していこうと思ってますよ(笑)」
そう力強く話す原田の表情に悲壮感は一切ない。そのかわりに、夢の舞台へと進む者ならではの力強さが漲っている。スティールパンを通じた世界とのコミュニケーション。かねてから原田がテーマとしてきたことが、今まさに実現しようとしている。その嬉しさというものが、原田の身体全身から発せられている。
「僕が初めてトリニダードに行ったとき、地球の反対側でこんなことをやってる人たちがいたのか!という衝撃があったんですね。今回のインターナショナル・パノラマでは世界中のパン・プレイヤーとひとつの楽器で繋がることができるし、〈おまえはそうなんだ?俺はこうだよ〉というコミュニケーションをスティールパンでできる。そういう機会は本当に素晴らしいことだと思うし、意味があることだと思うんですね」