原田芳宏インタビュー[前半] インタビュアー:大石始
vol. 1 2015-06-22 0
原田芳宏とスティールパンの出会い
若かりし頃の原田芳宏
原田芳宏がスティールパンの音色を初めて耳にしたのは80年代。ジャズ/フュージョンの伝説的グループ、ウェザー・リポートの「Palladium」という曲中におけるジャコ・パストリアスのプレイだったという。それから数年後となる89年、原田は本場のジャズやラテン、ソウル・ミュージックに触れるために訪れたニューヨークにおいて、とあるスティールパン奏者と運命的な出会いを果たすことになる。
「当時のマンハッタンはまだ危険で、ストリート・ミュージシャンが出す音もどこか寂しさや惨めさを持ってたんですね。それはそれで都会の孤独を感じさせるもので格好よかったんですけど、そのなかでタイムズスクエアでスティールパンを叩いてるオジさんがいた。汚くて危険なマンハッタンのなかでも、彼が奏でる音色だけがまるで天国から響いてくるような感じがしたんです。当時の僕はすでにパーカッションを演奏してたんですけど、もっと自分を表現できる楽器を探してたんですね。そこでスティールパンに運命的なものを感じたんです。
スティールパンの魅力は、やっぱり音色の美しさにありますよね。それをどうやって他の要素と組み合わせていくかによって、無限の可能性が生まれる。それと、スティールパンという楽器が持っている不安定さ、不完全さ、不自由さにも惹かれました。あの楽器は弾けないフレーズも多いんですけど、だからこそおもしろさを感じたんです」
96年、初めてスティールパンの故郷、トリニダード・トバゴへ
原田芳宏トリニダード・トバゴにて
89年からスティールパンの演奏を始めた原田は、当時日本にはまだ少なかったプロフェッショナルなスティールパン奏者として幅広く活躍。96年にはPAN CAKEのスティールパン奏者としてアルバム・デビューも飾る。
「そのころになると楽器(スティールパン)はほとんどマスターしていたし、ある意味、怖いものなしの状態だったんですね。96年、〈そろそろトリニダードでも行ってみるか〉という思い上がった感じでトリニダードに行ったんです(笑)。スティール・パンの世界の神様みたいなプレイヤーにも会ってみたかったしね。
実際に行ってみたら……ものすごい衝撃だったんですよ。そこで行われていたのは、スティールパンを使った社会活動だったんです。とにかく、老若男女みんながパンをやっている。今のスティールパン・バンドは〈メンバーは100人まで〉という縛りがあるんですけど、当時はその縛りもなかったから、140人のバンドもいた。その音といったら……あの凄さは体験しないと分からないですね。
パンを発明したひとりであるエリー・マネットはまだ生きており現役ですし、パンの文化を作ってきた人たちと直接触れることができたんですね。向こうでとあるおじいちゃんがこう言うんですよ。〈お前、ジャパニーズか?人種差別をなくしたのは俺たちだ〉と。〈スティールパンを通してトリニダード国内の人種差別をなくしたんだ〉と言うんですね。僕がその後参加したスターリフトというバンドの連中は〈俺たちが初めてチャイニーズをバンドに入れたんだ〉と話していたし、そういうふうに自分たちがやってきたことに誇りを持っていた。トリニダードがイギリスから独立したのは62年なんですけど、彼らは〈俺たちは血を流さずに独立を獲得した。音楽で独立したんだ〉と本気で言ってるんです。すごいことだと思いました」
96年の初渡航の際、原田はパンベリ(Pamberi)というパン・バンドに参加。当時、スティールパンを演奏する為にトリニダードまでやってくる日本人は皆無だったが、彼は世界的に知られるスティールパンの大会〈Panorama〉のステージにも日本人として初めて立った。翌97年にはトリニダード最高峰の作曲家/アレンジャーであるレイ・ホールマンがアレンジを務めるパン・バンド、スターリフトに参加し、ふたたび〈Panorama〉のステージにも立つ。
「スターリフトは進歩的な意識を持ったプレイヤーが集まったバンドだったんです。人種差別に対しても意識を持ってるプレイヤーが多かったし、スターリフトのパン・ヤード(パンの練習場)では違法なことが一切禁止。クリーンだから子供たちも多いし、悪い大人がいない。居心地がいいところでしたね。音楽はレイ・ホールマンというパンの革新的なアレンジャーが作ってるわけで、スティール・パンの世界の〈知性〉というものを体験することができました」
98年にはトリニダードを代表する作曲家/アレンジャー、レン“ブグシー”シャープがアレンジを務めるバンド、フェイズIIパン・グルーヴに参加。だが、しかし……。
「当時のフェイズIIはトリニダードで1、2を争う危ないバンドだったんです。今はだいぶクリーンになりましたけど、当時はすごかった。僕も事実無根のトラブルに巻き込まれてしまって、98年は演奏ができなかったんですね。そこで〈自分の音楽に戻ろう〉と思って、日本で知り合ったアマチュアのプレイヤーたちとパノラマスティールオーケストラを結成したんです。トリニダードを追いかけるのではなくて、あそこで学んだことを活かしながら自分たちの音楽をやろうと。僕自身、それまではプロフェッショナルなミュージシャンとして同じ立場のミュージシャンと仕事をしていたわけですけど、そういうものだけじゃなくて、老若男女、同じ目線で音楽を作れる場所をこの日本で始めようと思ったんです。
それまでアマチュアのプレイヤーと同じ曲を何回も演奏するなんてことはなかったし、クラブ活動みたいでとにかく楽しくて(笑)。プロのミュージシャンと一緒にやるのとは違うおもしろさがあった」
[後半へ続く/後半は6月29日に掲載致します。]
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