私たちが感じた久比の「異和感」 #3 感謝経済の輪の中で 前編
vol. 6 2024-04-26 0
皆さん、こんにちは。くびげえ実行委員会の福島大悟です。今回、「久比 小さな暮らしの芸術祭」を、開催するにあたり、僕がこれまでどのような経緯で久比に辿り着き、どのように久比と関わってたのかを振り返りながら、僕の視点から見た「久比」についてレポートを書いてみました。ぜひ読んでいただければ幸いです。
海で微笑む筆者
プロフィール
2001年 広島県福山市生まれ。2017年に農業高校へ入学したことをきっかけに、農村漁村地域の活性化に関わりはじめる。2019年、一般社団法人まめなのある大崎下島 久比に初来島。感謝経済を可視化する「まめな手形プロジェクト」で日経ビジネスコンテスト学生部門賞受賞。2020年、広島大学進学と同時にコロナのロックダウンを経験。大崎下島 久比に移住。一般社団法人 まめなの運営に参画。2021年、久比で大学生と地域の子どもたちで新しい学びの場をつくる「島の寺子屋」を90回開催。現在は、一般社団法人まめなの運営、まめな食堂のホールスタッフ、レモン畑、地域のおじいちゃんおばあちゃんたちの暮らしのお手伝いなどをしながら、芸術祭の企画をしている。
久比に初めて来た時の写真
真ん中で両手をあげているのが僕
たどり着いた「久比」
僕が初めて久比を訪れたのは2019年4月2日でした。当時、僕は高校生で、県内の農業高校に通っており、プロジェクト学習の一環で訪れました。「久比」の第一印象は、「ジブリに出てきそう」でした。到着して初日、久比出身の梶岡さんの柑橘畑で柑橘を収穫し、久比の東の谷にある築150年の古民家「久比BASE」に泊まったのを覚えています。深い谷底の集落で営まれる昔ながらの暮らしぶりに、感じたことのない懐かしさや温かさがありました。
まめな手形のプレゼン練習をしている様子
当時はまだ高校生
まめな手形プロジェクト
2019年8月、久比で一般社団法人まめなというコミュニティをはじめていた更科さんや三宅さんと話す中で、自分自身がやんわりと感じていた疑問や久比で感じていた温かさの中から「まめな手形プロジェクト」という構想が生まれていきました。
まめな手形を手渡している様子
「まめな手形」は感謝を可視化したもので、ありがとうで物事がまわる感謝経済という考え方が背景にあり、久比で営まれている物々交換や相互扶助のコミュニティをある種の感謝経済と捉え、人々の中にある等価交換の意識を払拭するための仕掛けとして考えたツールです。
父や祖父の故郷である愛媛県津島町後集落
シャボン玉を吹いているのが祖父、奥がひいおばあちゃん、そして真ん中の男の子が僕
また、この構想の背景には、自分の父や祖父の故郷が人口4人の限界集落にあり、物心ついた頃から感じていた「自然豊かな場所からどうして人がいなくなるのか」という素朴な問いがありました。当時、自分の中の仮説として、産業化の中で、農村漁村地域に金銭的価値基準が広まり、効率的に物を生産し産業を発展させて外貨を獲得するのに、人口が集中する都市部と比べて不利であったからというものがありました。それに対して、お金だけで価値を表現するのではなく、他者の行動によって自分がどう感じたかという「ありがとう」によって表現することで、普段関わることのなかった人々同士で心のやり取りが生まれ、その人やその場所に愛着が生まれるのではと考えました。
そして久比では、「物々交換」という形で、金銭的なやり取り以外の価値のやり取りのあり方が残っており、そうしたやり取りの背景には、金銭的な等価交換の意識ではなく、「ありがとう」という気持ちのやり取りがあるのではと解釈しました。「まめな手形」は、そうした久比の感謝経済のあり方に、久比の外から新たにやってきた人を取り込みながら、そうした価値観や考え方を広めようとする意図がありました。
「まめな手形」の構想を考えて以降、それを形にするために月に1〜2回通いながら久比でリサーチを行い、2020年1月、日経ソーシャルビジネスコンテストで学生部門賞を受賞しました。
久比で暮らしはじめる
2020年3月、横浜港に停泊していたダイアモンドプリンス号での集団感染を皮切りに、日本国内でもコロナウイルスの感染が拡大しはじめていました。当時、無事高校を卒業し、「大学に入学したらしばらく久比に来れないな」と思った僕は2週間ほど久比に長期滞在していました。まめな手形をつくるため、久比のおじいちゃんおばあちゃんたちに聞き取りをしながら、4日後に大学の入学式を控えていた日、「コロナウイルス感染拡大のため、入学式はYoutube LIVEで行います」との通知が来ました。
その後、大学そのものもロックダウンし、「友達もできないのにアパートで一人暮らしするのは嫌だな」と思ったので、僕はロックダウンが解除されるまで、そのまま久比に滞在することにしました。
久比で最初の暮らしていた旧寺尾邸(久比BASE)
築150年の古民家で、今回の芸術祭の会場の一つ
2020年5月、大学の授業がオンラインで始まって以降も、久比に暮らし続け、学部のガイダンスでOBの講師が言い放った「オンラインだから友達ができないのは言い訳だ」という言葉に感化された学生たちでオンラインサークルをつくり、そのメンバーを久比へ呼びはじめました。その中のメンバーの一人に、今回一緒に芸術祭を企画している延岡空もいました。
ベビーシッターをしていた家からの景色
年に数日しか雨が降らない砂漠に街がある
お金がないと何もできない
2020年10月、大学を休学して2ヶ月間、ロサンゼルスで生活をしていました。初めてのアメリカでワクワクだった僕ですが、コロナでロックダウンし、大統領選真っ只中だったため、町中ホームレスで溢れ、バリケードが張られるなど大変な時期でした。僕は、ベビーシッターをしながら何不自由ない環境で生活させてもらっていましたが、お金がないと家からも出られなければご飯も食べられない人が大勢いる町の様子を見て、久比の自然環境がいかに恵まれているのかを痛感しました。
「種蒔いて、肥えやって、草とっちょったらできるんじゃけ」
久比では、村人のほぼ全員が、各家の目の前にある「農床(のうどこ)」という家庭菜園のスペースで、野菜を自給しています。帰国後、お金を稼いで生活するという手段以外で、生活に必要なインフラを維持している久比の暮らしの面白さに、以前より増して惹かれていきました。
久比の人たちと古いアルバムを見ている様子
久比人になる
久比の人はよく「私らは久比人(くびじん)じゃけえ」と言います。「久比人」は、久比で生まれ育って、久比の言葉を話し、久比の文化に慣れ親しんだ人のことだそうで、久比にお嫁に来て50年以上経った人でも、「わたしゃあ久比の人じゃなぁけんのぉ。」と言われます。久比でこのジャッジは大変厳しいものです。
2021年、2022年、2023年と久比で様々な活動をする中で、一貫して、「自らの暮らしを自らの手で成り立たせている久比の人々のたくましさの根底には、どのような歴史的・文化的な背景があるんだろう」という問いが自分の中にありました。
気になった僕は、久比の人々が話す言葉、今はあまり使われなくなった久比の地名、久比の先人たちが書き残した文章や外部の記録から、久比の歴史や文化を調べてきました。また、久比の人々の暮らしの中に入り込み、日常的に一緒にご飯を食べたり、農床をしたり、季節仕事をしたりして、暮らしの知恵や考え方を学ぼうとしてきました。
そしてその結果として、久比の80代〜90代以上の人しか知らないような久比の言葉や地名を使ったり、久比の季節仕事を覚える中で、「あんたぁ、もう久比人じゃのぉ」と言われるようになりました。