私たちが感じた久比の「異和感」 #2 あたたかさの正体をさがして
vol. 4 2024-04-23 0
こんにちは!
叡啓大学3年生の飯田夏(いいだなつ)です。
大学では、リベラルアーツやソーシャルシステムデザインという、何やらかっこいい名前のことを勉強しています。
泳ぎます。0歳から水泳を始めて、選手として大会にも出場していました。今はスイミングスクールで子どもたちに水泳を教えています。
写真を撮ります。あたたかい光と自然な表情が好きです。その場の雰囲気とか感情とか温度感とか、そういうものをすてきな形で記録したいです。
上:「夏」という名前にピッタリな1枚を撮ってもらいました。
中:気付いたときにはスイミングスクールに通っていました。
下:写真を撮っているときの自分ってこんなに笑っているんだとびっくり。
久比に来たきっかけは、学校のインターンで去年の8月にまめなにお世話になった事でした。
将来やりたい職業なんて決められないのに、インターンシップだなんてどこでしようと悩んでいたところ、学校の提携先である「まめな」に惹かれました。まめなのインターンシップは決まった業務がなく、久比という地域で自分と向き合い、自由にやりたいことをやる。そんな内容でした。
知り合いもいない、土地勘もない初めての場所で、2週間自分は何をしよう。まあ行ってみればどうにかなるか!と久比にやってきました。
橋をいくつもわたっていきます。
広島市内から電車とバスを乗り継ぎ、久比のバス停に到着。
大きなスーツケースをゴロゴロと引きながらマップとにらめっこして、まめな食堂を目指します。
おばあちゃんから不思議そうな視線を感じました。たしかに、この島ではかなり浮いて見えていただろうなと思います。
なんとか、無事にまめな食堂に到着しました。
食堂のおいしいお昼ご飯を頂きながら「まめな」についてや「久比」についての説明を受け、ゆるりと私の久比での暮らしが始まりました。
久比での生活は豊かでした。
毎朝おさんぽに出かけ、地域のおばあちゃんたちに挨拶をしてお話をしたり,
お野菜をもらったり、新しいことを教えてもらったりします。
どこから何をしに来たかもよくわからない学生に、地域の方々はこれでもかというほどの愛情を、あたかも普通のように注いでくださるのです。
そんな久比に私は魅了されてしまいました。
やらなければいけないことはないのに、やることがある。
自分がこの地域にすぐに受け入れられ、久比の人たちと関わっているだけで一日が終わる。
とても不思議な感覚だったけれど、この感覚が私が初めに感じた「異和感」でした。
なぜ、ふらっとやってきた学生がたった数日でこの地域にこんなにも受け入れてもらえるのか。
出会ったばかりの私に野菜をくれ、貝拾いに誘ってくれ、お寿司を作ってふるまってくれるのか。
その「異和感」は久比での暮らしが長くなるにつれて深まっていきました。
その異和感の正体を考えていく中で、私の表現方法である「写真」は多くの気付きをくれました。「異和感」を抱えながら、自分の感覚に任せて撮り続けた写真には私が心動かされた瞬間が記録されていたからです。
久比での暮らしで私は何を感じていたのか、そんなことを考えながら自分がきりとった写真を見返します。
おばあちゃんの柔らかくてあたたかい表情。
私たちに伝えてくれる長年の知恵。
食べるための暮らし。
その人の生き様が見える手。
どの写真も見返すと、心がほっとあたたかくなるような瞬間が記録されていたのです。
私が魅了され、「異和感」を感じていた久比での暮らしは、この「あたたかさ」だったような気がします。
「あたたかさ」の正体は、「満たされた食事」「giveの精神」「深い愛情」なのではないかと感じています。
久比の人たちの暮らしは「食べること」でまわっているように感じます。
畑で採れた季節の野菜をみんなで食べる。
一日に三回ある食事をきちんと行うこと。
これは私たちが一番分かりやすく「満たされている」と感じることができる方法なのかもしれません。
私自身、一人暮らしをはじめてからはどうしても食事をないがしろにしてしまうことが多かったように感じます。
時には、少しいいものや季節のものを取り入れてみたり、食べたいものをお腹いっぱい食べたり、誰かと時間を共有しながら食事をしたり。
少しづつ食事で心を満たせるようにしていきたいと思っています。
「久比は人がええ」と久比の人たちは口を揃えて言います。
私が感じた「giveの精神」や「深い愛情」は人がいいだけでなく、久比の人たちが今まで生きてく中で、苦しみや悲しみを体感しているからこそ、平穏に過ごせる日々の「暮らし」に「満たされている」のだと思います。
誰かに何かをしてあげる時、自分が満たされていると実感できていなければ、誰かに与えてあげることはできないのではないか。
誰かから同じぐらいの愛情を注いでもらっているから、自分も愛情を注いであげれるのではないか。
自分に立ち返って考えてみると、giveをすることに抵抗や見返りを求めてしまっているように感じます。
自分は満たされていないのか、はたまた満たされているという定義がすごく高くなってしまっているのか。
周りが注いでくれた愛情を当たり前のように受けっとってしまっていたのではないか。
私の感じた「あたたかさ」の正体を見つけるには、まだまだ時間も経験も必要だと思います。
これからも久比に通って、たくさんのあたたかい瞬間を記録して、考えていきたいと思っています。