感動的な明日が待っている
vol. 109 2021-01-04 0
108日目終了。
三が日最後の日は伸びなかった。
残り日数が差し迫る中新しい目標に一歩でも近づけるようにしないとだ。
今日は地元の鎮守様まで行く。
これも毎年のルーティンになってきた。
日本国内であれば大抵どの街にも神社がある。
明治の神仏分離令で特別に神社ばかりがなくなっていない限りだけれど。
その土地土地を守る神様がいる。
ここで毎年、今年も無事に暮らせるように願うことにしている。
3日ともなれば並んでいる人も少ないうえに午後の人出が少ない時間に行く。
いつもならそれでも少しだけ並んでいるけれど今年は並ばずにお参りが出来た。
手水は禁止、鐘を鳴らすことも出来ない。
いつも配っているみかんとお神酒も今年はなかった。
すでにお焚き上げも鎮火しつつあるような時間で、テントを畳み始めていた。
歩いて行けるけれど、少しだけ距離があって、良い気分転換の散歩になった。
今年は遠出を避けて地元の人がよく来たのではないかと思う。
でもそれも、1日までだっただろう。
毎年の三が日にやっていることは大体やれたと思う。
不思議なもので心が清々しくなった。
帰宅すると20時までの飲食店時短営業のニュースが入ってきた。
諸外国に比べたら非常にゆるい措置だというのはわかるけれど釈然としなかった。
飲食店を時短営業にすれば本当に感染スピードが遅くなると思っているのだろうか。
医療機関の逼迫が厳しい状況だというのはわかるのだけれど。
そして、医師や看護師の皆様が大変だというのもとてもよくわかる。
日々、頑張ってくださっている一人一人には感謝している。
でも僕は病院経営者や日本医師会に関してはなんだか不満がある。
3~5月の頃の倍ぐらい病床数を準備してくれていると思い込んでいたからだ。
人材確保の道を探したり、看護助手が部屋に入れるような提言をしてあると思ってたからだ。
飲食店はちゃんと準備していたよ。準備にお金もかけていたよ。
医師や看護師の負担を少しでも軽くするための方法を夏の頃から準備していたと思えない。
そして簡単に庶民の経済活動を止めさせろと記者会見まで開く。
僕たちは冬の感染者数の予測を間違えました、だから協力してくださいというのが筋だと思う。
政治や自治体、病院のようなエリート層が、庶民を制限することで感染を防ぐのであれば、それは結局、社会主義国家がやっている制限と大した差がないじゃないかって思える。
自分の店でクラスターを出せば潰れてしまうという危機感の中で対策をしてきた飲食店の感染対策は見事なものばかりだと思っているから余計に。
もちろん病院でも飲食店でも、それぞれに差があるのもわかっていながら。
それともやっぱり制限以外に感染を防ぐ方法はないのかもしれないけれど。
「命より大事なものはない」という言葉の説得力には何にも勝てない。
それはもうわかっている。
僕だってそれは何よりも大事なことだと思っている。
ただただ命とは肉体だけじゃなくて心にも宿っているんだよって思っているだけだ。
簡単にエンターテイメントを不要不急と切り捨てた時につくづく思った。
今回の飲食店時短営業にも、心が通っているように感じない。
僕は今、世界でも人口密度の一番高い東京でこの感染者数に押さえている市民の努力を何よりも称賛することが先決だと思う。
様々な経済活動の中で、小さくなった灯を消さないように努力している人たちは、医療従事者にも負けないほど頑張ってきてるよ。
10月の舞台が終わって2週間後にお客様も含めて、感染者が出なかった時、どれだけ嬉しかったか、そのためにどれだけのことを考えて実行したのか、そういうのも簡単に断じられているように感じる。
皆が皆、しんどい思いをしているんだから。
命と経済の天秤じゃない。命と命の天秤になってる。
今、大事なことは、ゆるんだものをもう一度緊張させることじゃないと思う。
人間はずっと緊張したまま生きていくことなんかできない。
危険だとわかって緊張してきた時期はもう過ぎた。
本当に大事なのは、ゆるんでも対策が出来ている習慣化しかないはずだ。
僕たちは習慣の中で予防して、季節的な増加以上の増加を抑えていると信じているよ。
もう一度緊張すれば、壊れたりストレスのない妄想的な扇動に乗ったりする方向に行くだけだ。
僕は初秋頃にもここに書いたと思うけれど。
その頃から冬に感染者数が上がっていくことは予測してあった。
そして春頃に自分が出来なかったことをもう一度やるために考えていた。
もしかしたら、もう一度不要不急と言われるようになるかもしれない。
その冬から春にかけて、何をやれるのかを考えていた。
別に充分に注意しての舞台でもいいし、リモート作品でもいいのかもしれない。
もちろん、ただただやり過ごすという方法だってそんなに悪くないと思う。
僕の中では映画製作だった。
全てが止まった春がもう一度やってくると思った時。
僕の中で、今、本当にやれることはなんだろうと考えた結論だった。
僕は思う。
このクラウドファンディングに参加するか迷っている人たちがいたとして。
そんな皆様が、後から、ああ参加しておけば良かったなって思えるようにしなくちゃと。
参加した皆様が、あの冬を乗り越えた映画だと知っている作品にするべきだぞと。
誰もが平等に見えないウイルスという驚異の中を生きていて。
必死にもがいて、闘っている中で、何かが生まれるということを共有したいと。
一筋縄でいくようなことじゃないけれど。
そこに一本の道があるべきだと。
これから、間違いなくあの春と同じように、同調圧力が強くなっていく。
自粛警察が出てきたり、自由な意見を否定する連中も出てくるだろう。
それでも生きていく。
どうやって生きていく?
肉体の安全を図って、心を殺すわけにもいかないだろうよ。
僕たちはどうやって、心を豊かにしていく?
子供たちが感染することは悲しいけれど、子供たちが夢をみれない世の中になってしまったらそれだって悲しいじゃないか。
こんな状況でも、こんな世の中でも、夢のようなものを持って走るべきだ。
子供たちの憧れの人が、漫画の登場人物だけになってしまうよ。
それも、命を犠牲にしてでも仲間のために生きている物語の登場人物に。
子供たちが敏感に反応するのも無理はない。
例えば友達を思う。
僕がこの映画のプロジェクトをやっていなかった時に。
出演をお願いした仲間たちを思う。
僕は、やってほしい。やっていてほしい。続けて欲しい。
あいつらの芝居が見たい。作品が見たい。
それもつまらない打算の産物なんかじゃない本気のやつを。
ただの感動じゃダメなんだ、もう。
心が震えて立ち上がれなくなるような奴が欲しいんだ。僕は。
泣けなくてもいいよ、笑えなくてもいいよ。ただ震えたいよ。
確かに僕たちはいつか、感動して席を立てなくなったなんて感想ももらったんだから。
そういうことを、やらないわけにはいかないじゃないか。
僕にできることは大したことじゃない。
鎮守様にお参りして、無事に一年過ごせるように願うことぐらいだ。
そんなことで感染せずにすむならいいけどね。
僕だって肉体も大事なのだ。
でも、忘れない。
同じぐらい、心を満たすような瞬間が必要不可欠であることを。
高い意識を持って対策を習慣化しながら。
同時に僕は自分の心が震えて、それが共感の波を呼んで、誰かの心も震えるような。
そんな瞬間を目指すと決めたのだ。
109日目が始まる。
麦わらのルフィが1000話目を迎えたらしい。
継続することのすごさよ。重みよ。
まだ109日しか続いていないけれど。
僕も継続するよ。
仕事始めの人も多いのだろうか。
朝からニュース番組で、町の混雑の模様を流すのだろう。
やけにあおるような音楽にのせながら。
小野寺隆一