全ての願いがきっとそこに繋がっている
vol. 108 2021-01-03 0
107日目終了。
本日もご参加頂きました。
ありがとうございます!
じりじりと125人まで届いています。
今日は例年通りの初詣に出かけることにする。
と言っても、外出や初詣は時間をずらしてと言われているからギリギリまで悩んだ。
とりあえず出かけてみて混雑状況をみて断念すればいいかと家を出る。
毎年の初詣でも人が少ない時間帯で混雑している時間にはいかない。
午後をまわって最寄り駅に行くと駅にも人が少なく電車もガラガラだった。
胸を撫で下ろして電車に乗る。
結局、行きも帰りも、両隣に誰もいないままシートに座っての移動が出来た。
毎年行く小野照﨑神社の最寄り駅もいつもより人出は少なかった。
神社も僕の行く時間帯は、列になっていると言っても大した列じゃなかった。
セブンガールズのクラウドファンディング中からこの神社への参拝が続いている。
映画の中で首からかけていたお守りもこの神社のお守り。
渥美清さんが伝説を残していること。
非常に珍しく、小野篁公を奉っていること、盟友の菅原道真公も奉っている。
芸能について手を合わせるならやっぱりここだよなと感じるようになった。
向かう途中で、首都圏の知事たちが緊急事態宣言を国に要請するとのニュースが入る。
少し不思議な気持ちになった。
確か、北海道や名古屋、和歌山、大阪も、自治体だけで緊急事態宣言をした記憶がある。
法的な拘束力はないものの、まず自治体で宣言したのではなかったか。
首都圏4都県でまず自治体としての緊急事態宣言をするのではなく要請?
国も諸外国ほど大きな拘束力は持っていない。罰則規定なんかないのだから。
実際の効力は結局、宣言後の自己判断に任されているのが日本だ。
結局、補償の部分の擦り付け合いなのか?と感じてぞっとした。
誰が決めるのか?というボールの投げ合いをはじめようとしているのだろうか。
だとしたら国も簡単には決断しないだろうなぁとぼんやり思ってた。
一年間お世話になったお守りと財布に忍ばせたお御籤を返納してから列に並ぶ。
二礼二拍一礼。
映画「演者」の完成を願う。
新しいお守りをいただいて、絵馬を描き、新しいお神籤を引く。
あれから毎年やっているルーティンになっている。
今年のお御籤は吉だった。
それでいいのかもしれないとどこか腑に落ちた。
思えばそもそも自分は混雑が好きではない。
初詣は時間をずらすし、ラーメン屋も並んでいたら大抵は断念する。
ディズニーランドについて考えれば最初に思い浮かぶのはあの行列。
縁日やお祭り、花火大会は大好きだけれど、人の少ない所をいつも探してる。
コロナ禍になる前からずっとそうだった。
だから意外にいつも通りの生活をしているだけでも人込みを避けている。
例えば渋谷駅前から映画館に移動するだけでも、人通りの少ない道を自然と覚えていく。
徒歩なのに裏道好きで、店なんか何もないような道を歩いたりする。
そんな僕が人が少ないなぁと感じるのだから正月は天国のようなものだ。
人通りの少ない根津の辺りを少し散歩してから帰宅する。
いつか歩いた頃は大きな一眼レフカメラを肩から下げた外国人観光客が何人もいた。
今は誰も歩いてもいないようなただの細い路地。店も空いていない。
電車に乗ってから緊急事態宣言の要請について厭な感覚になった。
これはまた分断するのだろうなあと思う。
それをして欲しい人と、それをして欲しくない人が必ずいる。
緊急事態宣言をするべきだという声ばかりが大きくなっていくだろう。
なぜなら、現状を批判することのほうがいつだって強いのだから。
現実的で理性的な判断というものにポピュリズムが入ってくるだろう。
どちらになったとしても、苦しむ人が生まれる厭な分断だ。
そして、いずれまたその責任について、誰かが誰かを批判する材料にするのだろう。
コロナがやってきてから、リーダーシップという言葉を多く見かけるようになった。
各国のリーダー、国際機関のリーダー、各団体のリーダー。
「今、この国のリーダーシップが求められている」という言葉がどんどん出てきた。
僕はすごくこれが嫌いだ。
僕たちのリーダーにふさわしいだろうか?とか、なんのつもりだと思ってる。
リーダーシップは、先手先手で重大な判断をするべきだなんて耳にする。
勘弁してほしい。
後手でも科学的に立証されて民主主義的に確かな方法を選ぶべきだ。
結果的に成功すれば指示され、間違えれば非難される、そういう選択。
時に強烈なリーダーシップに僕たちはついつい憧れてしまうけれど。
物事をぐんぐん引っ張っていく、リードしていく人はどんな世界にも必要だけれど。
それは別に決裁の出来ない二番手の人でも裏方の人でもいい。
決裁をする人がそんな風にどんどん先手を打つような常態はあまり良い状態じゃない。
リードする人と、決定する人とといのは、まったく違うものだ。
多分、僕はそういう場所にずっといたから、それがよくわかる。
まだロジックが見えていなくとも、博打的要素があろうと走れるのがリードする人。
岐路に立った時に重大な決断を責任を持って出来る人だけが決裁を出来る人。
今回の「演者」製作プロジェクトで、僕はその両方をやらなくてはいけない。
決断をする唯一の権利がある監督もやるからだ。
撮影現場で唯一「OK」を出せる人こそ監督だ。
ここは重要なことだ。
その責任を僕が背負えるのかどうかだ。
自分で舞台をやっていた時、制作の部分、バンドをやっていた時はそれをしていた。
バンドメンバーだった織田は、小野寺は果断を出来る人だと思っているようだ。
レコーディングで納得いかない曲を、ボツにすると決断したり、バンドメンバーからコーラスを外すと一気に決断したのを見たからだと思う。
自分がこうと決めた以上、こうします。それ以上もそれ以下もない人だと言う。
そうなのかもしれない。
そしてそんなときの僕は外から見ればひとく残酷なのかもしれない。
今回はリードしながらという面では酷くアンバランスに感じている。
それでも決断はどんどんしていかなくちゃいけない。
そんなことを思うと胃がせりあがってくる。何度も何度も。
気付けば暗くなっていて、最寄り駅からヒトケのない道を背中を丸めて歩いてた。
僕の首には新しくなったお守りがぶら下がっている。
僕はこの映画の大成功を祈ることは今回やめにした。
まずは完成だけを願った。
大成功を願うのはまだまだ先の話だ。
どこの神社に行っても、少しだけ空気が澄んでいるように感じる。
その空気を吸うだけで、少し自分がしゃんとする。それを感じる。
それでも背中に乗っているものは、まだまだ重い。
ワクワクしているし、楽しみだし、まるで夢のようなものを目指してる。
緊急事態宣言なんていう暗いトンネルがもう一度目の前に現実化しつつあっても希望に向かってる。
でも軽快にステップしながらの前進というわけではない。
重いもの背負いながら、一歩一歩着実に進んでいく道だ。
108日目がはじまる。
正月三が日最後の日。
このクラウドファンディング期間の日曜日はこの日を過ぎればもう1回しか来ない。
ラストスパートが迫っている。
初夢を見た。
不思議な夢だった。
体の中の毒素を光に変えて出力するという方法を発明していた。
なんだかうまく説明出来ないけれど、そういう夢だった。
光はスクリーンに灯る映画の事だと思うことにした。
特殊な正月の最後の日に何が起きるだろう。
2021年最初の日曜日に何を思うだろう。
僕たちは誰もが傷ついている。
どこかギスギスしてる。
誰もいない道を歩きながら、その傷を生々しく感じた。
弱った僕たちはまたしても分断するのかな。
マスクの中でため息をついた。
映画の完成を願った日。
この願いはたくさんの傷が消えていくことに繋がっていると信じている。
小野寺隆一