舞台版「演者」へのリアクション
vol. 102 2020-12-28 0
101日目終了。2020年最後の日曜日。
じっくりと脚本と日中向き合っていた。
あまり進むことはなかったけれど。
本当は今日、主演の3人と僕の4人だけでもいいから会って話だけでもしたかった。
もっと言えば本読み稽古をしたいなぁと思っていた時期で。
それが無理ならせめてなと思っていた。
ただこのプロジェクトを立ち上げた日から、感染拡大してるだろうなぁと思ってて。
想定していた状況になっているから無理に集まるわけにもいかないなぁという感覚。
むしろ、僕の想定していた最悪にまではまだなっていないのだけれど。
僕は最悪年末年始の1~2週間は学校もないし企業も止まるから緊急事態宣言もあると思っていた。
様々な施設の閉鎖はあるだろうなぁと思っていた。
でも世の中的には今の状況でも十分に想定以上の酷い状況とみているようで。
なんだか目に見えない真綿で首を絞めるようにじりじりと厳しい状況になっていくようで薄ら寒い。
年末年始こそ、一年で一番のかき入れ時な仕事もあるわけで簡単には言えないことだ。
毎週感染者数が跳ね上がる木曜から土曜が、思い切り年末年始というのもなんだか怖い。
年末年始の検査数などはどうなるのだろうか?
舞台版「演者」は4人で何度も何度も話を重ねて出来ていった。
舞台というのは演出家からのトップダウンで出来ていくイメージがあるけれど。
この作品に限ってはボトムアップで、色々な意見を吸い上げて創っていこうと思っていた。
もちろん、最終的な判断であるとか、こっちでやっていいよという決定の責任は僕が負う。
その上で俳優側の違和感があれば逐一言ってもらって修正をしていくようにしていた。
稽古を観たメンバー以外からの意見で、こんなこと言われたけれど、どうかなぁ?なんていうのもあった。
もちろん参考にすることはあったけれど、基本的にやろうとしていることがわかっていないなぁという表面上の意見は、なるべくスルーするようにした。
その中でも多かったのが、難しいんじゃないか?という意見だった。
オムニバスで3作品並んでいるからそのバランスも考えての作風だったのだけれど。
わかりにくい、難解だ、という意見はわりと耳に届いていて、そうなのかな?と思ってた。
でも、まぁ、わかりにくいっていうのならそれはそれで良いよと言ってた。
というよりも、どこがわかりにくいんだかちょっとよくわからなかった。
他の作品との比較の中で、わかりにくいということなのであれば、気にする必要がないからだ。
参考になる意見もあった中で、わかりにくいと口にする意見は僕の中で一つの指針になった。
それでも不安がなかったわけじゃない。
とにかく、こういうことをやろう。ということで進んでいたわけだから。
3作品並んでいるし、「演者」だけ評判が悪かったら申し訳ないなぁと思っていた。
自分の中では、これはこれで楽しんでくれる人って必ずいるよって自信があったのだけれど。
それでも3作品の中では唯一シリアス寄りの作品ということもあって出たとこ勝負な部分はあった。
なんだか違和感しか残らないなんてこともあるのかもしれない。
ただやろうとしていることはお客様には伝わるよと言い続けた。
難解なわけがない。伝わるようにしてある。
むしろ、いつもなら端折ってしまうような微妙な感覚まで拾っている。
僕の感覚ではお客様は、俳優が想像している以上に作品を理解する。もっと深くまで。
子供でも分かるようにという言葉をよく聞くけれど、子供でも深く理解してる。
もし難解だとすれば、それは俳優が何をやっているかわからない時だけだと思ってた。
芝居が豊穣であれば言葉はむしろ邪魔になる。
芝居をどんどん掘り下げていった結果。
役者たちは今までのどの作品よりも、余裕を持って舞台に立つことが出来た。
空いている時間に舞台で役者たちが稽古をしたりするのだけれど。
その時間も最低限で十分だった。
あとは稽古通りに舞台に立てばいいよねという状況にまで仕上がっていた。
テクニカル的に他のチームが芝居のチェックをしたいと言えば、どうぞと舞台を空けた。
人数が少なかったことも大きかったけれど、そこまでの状況は初めてぐらいだった。
こういうイベント的な公演だからいつもよりもキャパシティも少なく予算も少なかった。
その上、3班にわかれているから、音響操作を僕がやる事になった。
他の2チームの音響操作、「演者」だけは、別で頼むという形。
自分の出番前に楽屋に移動して、出番が終わったらそのまま音響ブースに移動した。
通常、劇場の照明ブースや音響ブースは客席後方にあるからお客様のすぐ後ろで芝居も観た。
お客様のリアクションも含めて芝居を見るということが出来た。
結果的に音響操作までやれたことは良かったと思えた。
というのも、僕の想定をはるかに超えたリアクションがそこにあったからだ。
お客様は知らないと思うけれど、皆さんのすぐ後ろに僕は息を潜めていて。
いつも稽古場で観ていた芝居に更にお客様がいるという状況を間近で感じていた。
前半、前のチームを終えて、芝居が始まった時。
お客様が、すーっと、芝居の世界に集中していくことを感じた。
ああ、これなら大丈夫だな、あとは流れをきちんと積み上げていけばいいだけだ。
そういう自信を持って、僕は自分の出番前に楽屋に移動できた。
本当に驚いたのは自分の出番が終わってブースに戻った時だった。
泣いているお客様がいた。
背中が込み上げて揺れていて、物語に没頭していた。
それを初めて観た時には感動やら驚愕やらで、不思議な気持ちになった。
きっと伝わると思っていたけれど、ここまで心が動くなんて想定外ではあった。
わかりにくいはずないよと信じていたつもりだったけれど。
まったくもって、信じきれていなかったのかと思ったぐらいだ。
こんなに泣いているお客様がいるなんてことは、まるっきり想定していなかった。
じわじわと感じる作品だと思っていた。
初日が終わってメンバーと話してもそうだった。
まさか、泣いてい暮れるお客様がいるとは誰も思っていなかった。
それもクライマックスの前の段階でもそんなお客様を感じていたのだという。
それから僕たちは、もう一度驚くことになる。
終演後に届く感想がとても高評価だったことに。
どこに心が動いたのか、この作品がテーマにしていたこと、感じて欲しかったこと。
その全てをお客様は想像以上に理解していて、届けたいものが届いているという実感を得た。
お客様によって解釈が変わっても良いと思っていた。
というか、作品というのはいずれにせよお客様のものになるのだから。
でもほとんどのお客様の解釈が、物語に準じていた。テーマに沿っていた。
想定以上に理解が深くて、想像以上に心が動いていた。
そしてそこには熱気すら感じた。
「愛している」というセリフを書くことはたやすい。
それを聞けば芝居がどうあれ、お客様は愛してるんだなぁと理解する。
でも「バカヤロー」というセリフに「愛している」を入れてくれというのは難しい。
それを聞いても、愛してるってわからないお客様は出てくるよと言われる。
僕はそこに疑問があった。
出てくるだろうか?ちゃんと表現すればそれが伝わらないなんてことないだろう?
そう思っていたし、そう信じているから役者をやってる。
俳優の持つ力というものをどこまで信じることが出来るのかどうかだと思う。
そして、明確に「バカヤロー」にこのニュアンスを入れるように演出意図が伝えられるかどうかだと思う。
こんな風にアップデートを書き続けている僕がいうのはおかしな話でもあるけれど。
SNSが登場してから「言葉」が重くなりすぎている。
例えばTwitterで「バーカ」とつぶやいたら、悪いことみたいになってしまう。
でも所詮、言葉なんてものは感情表現の道具の一部でしかない。
言葉で伝えなきゃわからないよ!なんて、正論のようにまかり通る世の中になってしまった。
汚い言葉は使っちゃいけないなんて、感情の機微までかき消すような意見まで出てくる。
ジョークが冗談として通じなくなったりする。
「バーカ」の中に、愛も憎しみも笑いも入れられることを忘れちゃいけない。
言葉は重要だよ。とっても。文学で言えば。
でも演じることで言えば言葉は一部でしかないし、生きることで言えば言葉なんて小さなものだ。
言葉なんて小さいと認識したうえで。
それでもなお必要な「愛している」という言葉を叫ばないとだめだってことだ。
芝居はそれを伝えることが出来るものだ。
そういう表現だ。
芝居においてセリフの重要性なんて30%もあればいい方だと思う。
フィクションの度合いや、感情表現や、感情表現をしないことや、そういう全てで出来てる。
「演者」へのお客様のリアクションを見て、僕は改めてそれを学んだのだと思う。
表情や、声のトーンや、息遣いや、歩き方や、目の色の全てが音符だ。
そして、それは俳優たちが思っている以上にお客様に届く。
届かない時は、間違いなく表現が足りていないだけだ。
反省するべきは常にそこだけなのだと思う。
面白い芝居をしようぜ。
そう思ってる。
役者たちが演じ甲斐があるような奴を。
102日目が始まる。
年内の仕事が終わった人、仕事納めの人、年末年始の準備をする人。
色々といるだろう。
学生たちは冬休みに入って、どうしようと思っているだろう。
僕は脚本を何度も読み返して、もっと演じ甲斐があるようにしたいなぁと思ってる。
いつもと同じようで。
いつもと違う年末年始がやってくる。
いつも同じ年末年始なんかないのだけれど。
小野寺隆一