分解を繰り返して味が深くなる
vol. 80 2020-12-06 0
79日目終了。
今日も見た目は何も変わらない日になった。
けれど自分の中は大きな前進の日になった。
「読んだよ。これ、やりたいの?」
そんな一言が急に隣から飛んできた。
「はい。」
マスク越しに伝えた。
現時点のシナリオ第二稿はキャストをはじめアーティストにだけ読んでもらっていた。
第三稿までは製作そのものに対しての意見などはあまり自分に入れたくない。
自分の内側から出てくるものだけで構築してきた世界を。
表現の世界にいる人からの言葉で更に掘り下げたいと思っていた。
自分のやりたいものがブレてさえいなければ、それは作品の強度を高める。
軸があれば視点は無限に存在する。
豊田利晃監督がシナリオを読んでくださった。
自分のタイミングで読むよ、送ってもいいよという言葉があって。
今は忙しいことを知っていたこともあって。
いや、むしろ忙しいであろう時期の仕事の隙間にわざわざ送った。
そのままメール添付を開かないかもしれないそういう時に。
脚本を書く人が、脚本を読んで意見を言うことはそれほど簡単なことじゃない。
本当なら意見なんて言いたくない人の方が多いはずだと僕は思う。
だから強引に読んでくれ!と渡すようなことはしたくなくて。
時間があって、そういうタイミングがあったらでいいですと送信してあった。
結果的に読む時間がなかったよと言われてもいいかなとどこかで思っていた。
読んで、何か言わなくちゃいけないというような雰囲気づくりをしたくなかった。
実際、過去には、読むよと言って読んでくれない人に何人も会ってきたからというのもあった。
どんな言葉をもらったかは明らかにするつもりはない。
ただ自分の中に大きく響く言葉だった。
そして、何をやろうとしているのか、そこまで理解されているとわかった。
オリヂナル、原作物、ドキュメンタリー、舞台に至るまで様々な脚本を実際に書いてきた人。
僕は「絵が見えない」とか言われるのかもしれないとずっと思っていた。
なんだこりゃ?って笑われることもあるかもなとも思っていた。
でも、そういうことではなくて、もっと具体的な構造的な部分に触れてくれた。
その言葉は難しい言葉ではないけれど、同時に理解できる人は限られている言葉だった。
その言葉の裏にある「なぜ」がわかる人とわからない人がきっといるだろうと思った。
大事なことはその「なぜ」だと思う。
創作という場に立つ者にしかわからない「なぜ」なのだと思う。
僕は嬉しいという状況だけで収めてはいけないと思って。
盛り上がる気持ちを抑えてからもう一度反芻できるように何度か自分の中で言葉を繰り返した。
今、深く考えることは、舞い上がっているかもしれないと感じたから。
ただもし読んでくださったらお願いしようと思っていたことを口にした。
「いいよ」と言ってくれた言葉に、もう一度舞い上がった。
例え読んでくれなくても、お願いしたいなぁとずっと思っていた。
自分の中でこれしかないと思っていた事だった。
僕にとっては大好きなことだったから。
必ず自分の中でそういう言葉や、そういう一つ一つが熟していく。
それがどんなものを生み出すのかは未知数だ。
一見、何も変わらないかもしれないけれど、それは見た目だけ。
軸に肉がつき、ぜい肉をそぎ落とし、味を深める。
その先に自分の中から生まれてくるものはもっと無意識の領域に落ちてからなのだと思う。
長い時間をかけて帰宅の途に就く。
ようやく電車に乗って揺られている時に、ふわりふわりと考えていた。
豊田利晃監督は映画監督デビュー前に脚本デビューをしていることを。
師匠と口にする阪本順治監督の作品に二本も脚本を書いている。
その時はどんな気持ちだっただろう。どんな会話があっただろう。
そんなことを抽象的にもやもやとイメージし続けていた。
そして自らがメガホンをとることになった時、何を思っただろうなぁ。
いつか聞くかもしれないし、聞かないままふわふわしたイメージを持ち続けるかもしれない。
でも確かにその時に、創作という場所に立ったのだろうと想像する。
自分がこれまで活動してきた中で。
舞台の上演台本は書いてきた。演出もしてきた。俳優もしてきた。
色々な時間を越えて、映画製作までやった。
そしてこの先、どうやって進んでいくか考えて考えて、ここに立っている。
立ち止まるという選択だってあったのかもしれないけれど、それはまったく思い浮かばなかった。
そしてなんとなくこのまま続けようという感覚も持てなかった。
長く準備の時間も必要だったし、長く考える時間も必要だったけれど。
ここに向かう以外にはないという道がいつの間にかはっきりと見えてきた。
僕は「やる」と言ったことは絶対にやって来た。
そして「やる」ことを見つけた。
やってきたことを形にするのだと決めた。
自主映画を創る。
インディーズで自分の力で創作する。
そういう人は世に山のようにいる。
その中で僕はなんと幸福な場所にいるのだろうと思う。
出演する仲間がいる。信頼できるスタッフがいる。
言葉をくれる人がいる。
そしてここに応援してくれる人たちまでいる。
ならば更に僕は自分を追い込まなくてはいけない。
今は内側に向かって自分の無意識レベルまで両手を突っ込まなくてはいけない。
もつれている糸を自ら指先で触れてみなくてはいけない。
痛みも。
感じるべきだ。
恐るべき鈍感な人たちにはきっとわからない痛みを。
僕は今まで何度も無意識的な防御反応で封じてきた。
その壁さえ破壊しなくてはいけない。
監督をするということはその作品に対して全能の権限を持つことだ。
けれどその全能感を自ら打ち捨てるだけの覚悟も持っていなくてはいけないのだと思う。
矛盾しているようだけれど、コントロールできるからこそ、コントロールしないのだ。
なんでもできながら、何者でもないとしることだ。
そしてやがて暴走機関車のように進む。
リミッターを解除する日がやってくる。
自らの無意識にそれまでにどれだけの想いを蓄えることが出来るのかだ。
頭で考えるべきことはそれまでにすべて準備しておく。
その先は、頭だけでは出来ないだろう。
かしこいねぇなんて作品が面白かったことなんて一度もない。
80日目が始まる。
寝て、起きて、僕は最初に何を思うだろう。
12月最初の日曜日。
予測できない何かが自分の奥底から湧き出てくる予感がしている。
小さな小さな何かがアミノ酸の分解を繰り返して発酵食品が出来るように。
奥行きを僕は手にしたのだと思う。
小野寺隆一