悪意の視点
vol. 79 2020-12-05 0
78日目終了。
新しいフェーズに入りつつある。
とは言えまだ助走段階。
走り始めたら暴走に近い進み方をすることになるんだろうなぁと思う。
何かを創作する時にどうしても良さばかりを探してしまいそうになる。
人の良いところ、美しいところ、素晴らしいところ。
良さを全て集めて、良さを表現しようとしてしまうようなところがある。
最近はそういうものをありとあらゆるところで目にし続けている気がして。
何か自分の中でこれは、危ない事なんじゃないかと感じている。
流行っているものの中にそういう傾向を見つけ出してしまっている。
なんで危ないと感じるかと言えば。
圧倒的な良心に寄ることは、一方を悪と断じてしまう二元論に陥ってしまうからだ。
完全無欠を求めてしまえば、不完全なものを認められなくなってしまう。
本当はもっと良いも悪いも丸抱えなはずなのに。
そしてそれは、自分が悪い人間だと誰かが自己否定をする入口にだってなる。
人の駄目な部分、悪い部分をどうやって愛していくかの方が僕にはリアリティがある。
毒舌と呼ばれる人が求められたり、嫌がられたり、そんな波がある。
悪意ある一言だけれど、それが的を射ていて、ドキリとさせられる。
その悪意という視点は僕は必要なものなんだろうなって思っている。
ロックンロールは反体制だと言うけれど、そんな視点がなくては生まれなかったんじゃないか。
どこか、大人たちの綺麗に取り繕ったものを破壊するエネルギーにはそういうものが含まれてる。
落語の世界もそういう所がある。
江戸時代に生まれた噺なのに、お殿様をいじっているような「目黒のさんま」とかがある。
他にも、町の笑われ者のような登場人物が愛おしい人物になって師匠を困らせていたりする。
世の中のストレスになっている部分を、笑いに変化させて、相対化している。
ただ美しい人間愛を書けば笑いにならないだけじゃない。
別のものに変化させることで、世界を拡げているのだと思う。
ちょっと良いもの、美しいものが目立ちすぎる世の中だから。
ちょっとだけどじだったり、ちょっとまぬけだったり、そんなものも否定されている。
これは逆を言えば面白い事なんじゃないか?と思えるようなことが、悪になっていたりする。
僕はそれはただの分断なんじゃないかなぁと思う。
でも自分をいざ振り返ってみれば、善人だなんて胸を張ることは出来ないよ。
良いことも悪いことも、自分の中にはたくさんあって、自分は悪人なんじゃないかと思うことだってあった。
着飾って美しいものばかり表現しようとするといつの間にか遠くなっていく。
あれ?何か随分と遠い表現をしているんじゃないかと、ある時に気付く。
そんな時に逆に、雑な表現を目にすると心を奪われたりする。
声楽家が美しいファルセットで歌っていれば素晴らしいと感じるけれど。
ブルースマンがウイスキーで喉が焼けたしゃがれ声でシャウトした時に体が痺れる。
血が通っている瞬間とはきっとそういうものなんじゃないかって僕は感じる。
これは全て表現の中で感じることだけれど。
なんだか世の中で起きていることはそういうことなのかなとも感じていて。
だからこそ、今、流行っているものはそういうものが多いのかもしれないと思う。
世界VS疫病という構図の中で、正義と悪が生まれている。
圧倒的な正義であるべきという人がどんどん生まれているように感じてる。
日本という国は特に儒教的な影響を強く受けている国だから余計になのかもしれない。
元々の性向に潔癖なところがあるから悪い何かを排除しやすい空気が流れてる。
清く正しく生きることが美しいと何百年もかけて生きてきた民族だ。
もちろんそれが世界に評価されることがあることも良く知っているけれど。
その評価の裏側に、例えばラテン系のような明るさを本音では羨ましく思っている。
裏街道をゆく人まで、仁義を大事にしていた国は、何かに縛られ続けて。
今、その緩衝材のようなものがどんどんなくなっているんじゃないだろうかと感じる。
何かが危ない。
ことあるごとに「心の闇」という言葉がニュースにあがった時期があった。
あの時に不思議だったのが「良心」でそれを理解しようとしたことだ。
それは到底無理だよと思っていた。
誰の心にも潜んでいる闇からそれを観なければ本質はわからないよと思ってた。
そもそも自分にも闇の部分があるのだと自覚してからじゃないと多分理解できない。
そしてそれはすごく怖い事なんだなって思っていた。
自分の中に闇があることを認めることはとても大変なことだ。
自分の子供に暴力をふるってしまう事件。
介護の現場でお年寄りをいじめてしまう事件。
そういう事件が起きるたびに簡単に加害者を非難をする。
被害者を思えば当然のことなのだけれど。
例えば、事件化していないけれど、つい一度だけ子供をぶってしまった母親とか。
例えば、事件化していないけれど、ついお年寄りの食事を手の届かないところに置いた介護士とか。
そんな小さなことはきっとあって、そんな人たちは自分の中にある悪に気付いて八方塞になるんじゃないかとそちらが気になってしまう。
良いこと、悪いことの線引きを濃くすればするほど、その間にある曖昧なものたちが、ふるふると震えだして、極端化してしまうのではないかと怖くなる。
そして良心から生まれたものまで攻撃されることだって起き始めている。
悪いこと、汚いもの、闇。
そういうものに目を閉ざしたくなる時期はあっていい。
それはきっとなんらかの社会の自己防衛本能なのだと思う。
今は、楽しい場所にいたいと感じることは個人にだってあるのだから。
ただそれはきっと危険信号だ。
今、皆は直視できない現実の中を生きているんだぞという信号だ。
一見、良心に囲まれて平和のようにみせかけているから厄介だけれど。
きっとそういう世の中には蓋をして見えなくしているものがある。
ものごとの本質はいつだってアナログで、極端化できないドロドロとしたものだ。
ディズニーは夢の国だと言うけれど、巧妙に悪意も仕込んであるじゃないかと僕には感じる。
人間なんて滑稽ですよとシニカルな視点が常にある。
芸人さんが不倫をして記者会見を開いた。
面白そうだなと思ってアクセスしたけれどすごい真面目な顔をしていてすぐにやめた。
やけくそになって炎上してもいいから笑いを取るぐらいのことがあるかもと思ってた。
次の日になって、その会見のダメ出しのニュースがネットにあふれてた。
SNSでも色々な人がダメ出しをしていた。
どうしたら謝罪になったのかのダメ出しと。
何を聞くべきだったかのリポーターたちへのダメ出し。
なんだこれは?
世の中はどうなっちゃっているんだろう。
立派な謝罪?素晴らしい質問?見下ろして評論する人々。
その裏にある気軽に有名人からお小遣いをもらっている女の子たちがどうして生まれるのかは誰も触れようともしない。
その裏にある悪いことだと認識していながら手を出してしまう人間の愚かさに触れている人は誰もいない。
自分の奥底にもある、愚かな部分を隠そうとしている人ばかりに見えた。
そして、そんな社会的なストレスの部分を笑いに転化出来ている人もいなかった。
最初にアクセスしたのだから、僕も同じだ。ダメな奴だ。
でも本当にそうかな?って思っている。
ほんとうのことを皆が探しているような感覚がある。
確かにはやっているものはそうじゃないのだけれど。
でも、実ははやっているもののなかにそういうものを探しているような気がしている。
自分の中の本音を吐き出したい人もたくさんいるように感じている。
僕は怯えないようにする。
悪意の視点を持つことにだ。
綺麗に着飾るようなことになってしまったらいけない。
今、それをすることは危ない。
圧倒的に美しいものを創ることを否定しているわけじゃなくてだ。
僕の中にあるアンテナが、今はそれじゃないと言ってる。
汚れているから美しいんだ。
滑稽だから愛おしいんだ。
不完全だから、心に残るんだ。
馬鹿だから、気になるんだ。
不安定だから、あったかいんだ。
けっ、バカヤロウ。
ざまあみやがれ、コンチクショー。
誰だって叫びたいに決まってら。
79日目が始まる。
12月最初の週末がやってくる。
小野寺隆一