いつかそれは円を描く
vol. 76 2020-12-02 0
75日目終了。
前日に大きく伸びたから今日はどうだろうと思う中、それでも一歩進みました。
ご参加いただきありがとうございます!
100名に到達したらそこから更に動き出そうと思っていたことがあった。
僕個人でプロジェクトを立ち上げて、自分で宣伝していくと宣言して。
それは自分の中ではかなり高い目標に設定したつもりだったのだけれど。
もう95人88%という思ってもいなかった場所まで辿り着いていて。
完全にではないけれど、一部、新しく行動を拡げてみる。
11月中に目標を立てたのはそういう意味だったからだ。
12月に入って変わらないようでは面白くない。
ラストスパートがやってくる前に出来ることを一つずつ詰めていく。
第三稿が上がったら、それを読んでもらう人の範囲も拡げていくつもりで。
それはもうどうしょうもなく緊張することでもある。
今の時点で、キャストやアーティストである人たちには読んでもらっている。
ただ製作サイドにいる人の意見などは今の時点であまり聞いてはいけないと思っていて送っていない。
色々な意見がバックしてきてそれを反映させるにしても。
原点である脚本は、内側から出てくるピュアなものをまずしっかりと確立するべきだと思っているからだ。
シナリオは立ち位置でまったく読み方が変わっていく。
読む入射角が違うからこそ、参考になる意見が集まる。
だとしたら僕がこういうものをやりたいんだという足場がグラついていてはいけない。
既に固まっている部分もあるし、台詞のブラッシュアップの段階のシーンもあるけれど。
それでも更に自分の中にある観念的な部分は練り込んでいかなくちゃいけない。
もっとも俳優からの意見はもうもらっているのだけれど。
俳優が実は一番、シナリオの読み方としては特殊なのかもしれないとも思う。
映画の持つ全体像や客観ではなく、登場人物の主観で読むわけだから、視点が逆だ。
じゃあなぜそこに最初に送ったのかと言えばキャスティングもあるのだけれど。
何よりも、自分がこれを演じるとしたらという過程を想像出来るのかどうかが重要だからだ。
キャストは作品の中で生きる。
これは生きていないぞという違和感を誰よりも素早く察知する。
信頼できる俳優たちだから、もっとおいしくして的なことを言う役者はいない。
あくまでもこれなら生きられるかどうかだけで考えてくれる役者たちしかいない。
信じられないと思うけれど、実はそういうことがある。
主演ありきの作品でプロダクション側から脚本を替えてくれと物言いがつくことなどは実はよくある。
脚本や監督は、作品について考えているけれど、それとは別の意見が入る。
もちろんそれはお互いに仕事なのだから仕方ないのかもしれないけれど。
僕自身もそんな現場をみたことがあって、書き換えさせるということに驚いた。
その監督がやりたいものからどんどん遠ざかっていくことなどは気にしないのかなと思った。
けれどその役者ありきなのであれば、ある意味で仕方ないのかもしれない。
別に映画だけじゃなくて、今まで何度もそんな場面は見てきた。
表現とはまったく関係ないパワーバランスの問題は常に作品のそばにある。
芸能の世界からは遠い小劇場の世界でも大なり小なりそういうことはある。
おいしいおいしくない、役の大小、ごますり、損得。
役者なのだから少しでも良い役につきたいのは当たり前と言えば当たり前だ。
僕の中ではあまりそういうことは気にしていない。
役の大きさ小ささはそれほど問題じゃない。
ただもちろん、逆におかしなバランスを押し付けられてしまうと怒りを覚える。
作品と関係ないそういう雑念が自分に影響してくることは大嫌いだった。
純粋に演じることが出来ないような圧迫的感覚があるとそれだけで駄目だった。
ある意味で芸能界的なことが単純に嫌いなのかもしれない。理不尽に感じる。
ただこの先、まったくそういうことがないのかと言えばわからない。
範囲を広げようと思っているのだから。
当然、色々な意見、色々な話が出てくる。
僕の頭の中の想像力から生まれたものだけれど。
実際に撮影しよう、作品にしようとなれば、様々な意見が出る。
そこは作家的に大事な部分なんだけどなぁと思う所だって意外に簡単にどうなの?となる。
それを拒絶してもしょうがないと思う。
その時に、ここはこうなのですとちゃんと説明できる自分であるかどうかが大事だ。
そしてそれを説明できず受け入れるということはそこまで自分の中で確立できていなかったということなのだと思う。
むしろ自分から色々な意見を聞いて取り入れていけるぐらいの幅を持つべきだと思う。
そこで自分の軸となっている部分がブレるかどうかというだけのことだ。
シンプルに予算的にこのシーンは難しいなんていう意見は普通に出てくるのだから。
シナリオを読んでも。
伝わらない人もきっと多くいると思う。
それは仕方がない。
自分の文章力の問題だろうと考えるしかない。
それにシナリオは、あくまでも映画の設計図で映画ではない。
そして、それ以外にも、わからない人はいるだろう。
自分のシナリオじゃなくても、これのすごさわからないんだなぁと今まで何度も感じてきた。
え?こんなに面白いのにわからないのかって。
意外にシナリオを読むのは難しい。
自分が書いたシナリオだと中々そうは考えられないかもしれないけれど。
核たるものはすでに出来上がっていると感じている。
ここから先は風呂敷を拡げることよりも深化させていくことが重要だと思っている。
一つずつ。
一つずつ。
着実に進んでいく。
76日目が始まる。
怒涛の師走は始まったばかりだ。
どんどん加速する。
熟考を重ねて「円」を描く投げかけを一つ。
どんな解が待っているだろうか。
小野寺隆一