じゃあ何に求められるべきなのか
vol. 73 2020-11-29 0
72日目終了。
80名70%まで進んだ。
ありがとうございます。
これはすごいことなんだと日々感動しています。
役者同士で話をしていると、こんな言葉が出てくる。
「芝居のことだけ考えて生きていきたい」
僕たちはあまりプライベートなことには触れないようにしている。
それは演じている僕を観る時に余計なイメージがあったらそれは邪魔になると知っているから。
どんなに悪役をやったって、日常が見えてしまえば物語の障害になる。
滲み出る性格は役者の個性になるけれど、染みついた生活臭は邪魔になる。
だから僕たちはそこまで多くのプライベートを公開したくない。
でも僕たちは実際にそこに生活があって、現実に追われて。
芝居以外のたくさんの事に埋もれながら、かろうじて表現の世界にしがみついてる。
残酷なほど日常に追われる。
芝居のことを考える時間は自分で創っていかなくちゃいけない。
それは多分、職業として俳優が成立している人もそれほど大きく違わないかもしれない。
生活が出来ていたって、生きていけば色々なことが起きる。
芝居のことだけを考えて生きていけることなんて実際にはありえない。
そんなことはわかっているのに。
つい思ってしまう。
芝居のことだけをって。
俳優は求められないと仕事を得ることがない。
じゃあ誰にどうやって求められたらいいのかという問いがいつもそこにある。
僕たちは手が届きそうな小劇場で舞台をやりながらいつだってお客様が求めるならと考えてた。
僕たちはきっと可能な限り僕たちの表現を楽しんでくださる方に届けたいと願っている。
でも時々、小劇場の世界とは違った俳優と話すとまったく別次元の話になる。
お客様に求められるのだけではいけない。
製作側に求められる俳優にならなくてはいけない。
監督の求めるキャラクターをすぐに演じられる役者にならなくてはならない。
製作側が求める個性を持った俳優にならなくてはならない。
あるいはスポンサー企業のイメージにあっているほうがいいとか。
いわゆる作品の中で、作品を支えられる存在になりなさいということだ。
国民的な人気がない限り、お客様から求められるだけでは「仕事」にならない。
表現したいなんていう欲求は結局はわがままなのだと思う。
自分の中にあるものをアウトプットしたいだけなら勝手にやっていればいい。
それがたまたま生活できるほど求められる表現であればその世界に行けばいい。
そうじゃないのであれば、生活しながらひっそりと絵を描いたり、文を書いたりし続ければいい。
芝居のことも考え続ければいい。
森の鳥に歌を聴かせ、詩を詠み、日記を綴ればいい。
でも本当にそうなのか?
本当にそれでいいのか?
と僕は思う。
僕たちはいつだってお客様の存在を意識して演じてきた。
多分、舞台に立つ者の最大の強み、最大の違いはそこだ。
僕たちはLIVEをしてきた。
もっとずっと根源的なものに触れてきたのだと思う。
ステージに立って僕の肉体の一挙手一投足が人目にさらされて。
その中で僕たちは確かにそこにいる全ての人々と何かを共有したはずで。
僕たちの表現はやっぱりその共有が原点になっている。
自分がアウトプットしたい事じゃない。
誰かが受け取ってくれるものを目指している。
だからと言って求めるものを目指すわけじゃなくて。
きっとまだ知らないものを発信して共有することを探してる。
欲しいものを渡すわけじゃなくて、欲しかったものを一緒に見つける。
そういうことを繰り返してきたのだと思う。
だから僕たちは結局、映画監督やテレビドラマの製作が求めるような俳優になろうとしなかった。
いや、なりたいし、芝居のことだけ考えたいし、それも目指していたのだけれど。
そして多分、それもやれば出来るのだけれど。
けれど、頭の中で一番大切なことは目の前の人なんだって根っこの部分で知っていた。
例えば、現場に求められて出演したって、その映像をみる人をどこかで意識していた。
僕はこれを人間が生まれた時から持つ根源的な欲求だと思っている。
魚は生まれた時から泳げるけれど、人間は人間が育てないと大人になれない。
生まれた時に不完全で、人は人の助けを受けながら生きていかなくちゃいけない。
そうやって生きていきながら、どこかで寂しくなっていく。
自分が本当は孤独なのだと気付いていく。
自分が考えていることの全てを共有できることなんてない。
自分自身のことだって結局完全に理解なんか出来ない。
僕たちは不完全で個は個である限り、その殻から永遠に出ることはできないと知る。
だから言葉が生まれて、文学が生まれて、詩が生まれて、愛が生まれる。
人は人と、ほんの一部分でもいいからわかりあいたくて、たまらなくなる。
同じ時間を共有して、誰かと同じタイミングで笑って、同じ涙を流したくなる。
僕たちは舞台でその根源に触れすぎた。
演じることはすでに自分個人だけのものじゃなくなってた。
誰かにとっての特別な時間を創ることが僕たちの表現になってた。
芝居のことだけを考えて生きていくとしたら。
きっとそういうところに進む。
それじゃあ、生活も出来ないかもしれないけれど。
僕たちはそんなことばかり考えたい。
圧倒的な日常に囲まれていても。
抜け出せない個人と言う殻に閉じ込められていても。
共感の輪が拡がって。
80人もの人が集まった。
僕は凄い人数だと思う。
11月中に100人なんて言いながら、もうとっくに感動してる。
僕は多分、人を意識して演じ続ける。創作し続ける。
それがこうして形になっている。
今まで知り合ってきた全ての皆様にお知らせできているのか何度も不安になる。
一人でも多くの人たちにまず知ってもらえなければいけない。
たくさんの人が、情報の拡散をどんどんしてくれていて。
それだけで胸が張り裂けそうになる。
11月に100人の目標まで行けたら。
パブリッシングに広げていこうと思っている。
中々、記事になったりはしないのだけれど。
それでも、より広い場所での告知を模索する。
それが12月以降の目標になっていく。
そこに届けないと、そこに期待してもらわないといけないと思ってる。
広く広く、根っこにあるはずの大切な何かを求めていく。
目標に達しなかったらどうしようかはまだ考えてもいない。
そしたら、それから考えればいいさ。
僕はもっともっと求められる人にならなくてはいけない。
じゃあ誰に?と、改めて問い続ける。
自問自答の日々は永遠に続くのだろう。
感動したいんだ。
僕はそうだ。
心を揺り動かされたいんだ。
誰だって。
今、もう感動している。
でももっとだ。
もっともっとたくさん感動して。
心が動くことを共有するんだ。
今まで何度も何度も経験した、忘れられない一日をもう一度創るんだ。
73日目が始まる。
11月はもう終わろうとしている。
このプロジェクトに出会って何かが変わる人だっているのかもしれない。
映画はそういう力を持っている。
小野寺隆一