その距離はゼロにだってなること
vol. 67 2020-11-23 0
66日目終了。
映画館のシートに座って映画「セブンガールズ」を初めて鑑賞した。
最後部に立ってとか、一部だけを観たことはあったけれど。
いつも聞こえてくる拍手の音に包まれたのは初めての体験だった。
上映機会はもうそれほど残っていないだろう。
次に上映出来るとしたらいつになるだろう。
まだ劇団の解散が決定する前から11月の上映を目指していた。
10月の舞台があって、その次の舞台の予定を組めなかったからだ。
現下の状況で、新たに劇場を押さえるのはリスクが高かった。
特に冬から春にかけては、まだまだ何が起こるかもわからない。
冬の状況をみてから考えないと、再び延期などはダメージが大きすぎる。
だからせめて10月公演が終演した後に、映画上映の機会をもてないか模索してた。
そしてその冬にこのクラウドファンディングをしようと思っていた。
また身動きが取れなくなって未来が見えにくくなるだろうから。
実は断られた映画館の数が数カ所ある。
ドリパスのご担当にもアクションを続けた。
全部断られてから、復活上映が再度決まった。
まさか劇団解散後の上映になるとは予想していなかったけれど。
やっぱりこの11月に上映出来たことは、大きなことだったと思う。
冬の状況を見て、舞台をやるならすぐに動かないといけないと思っていた時期だ。
さて今、何をどう考えるべきだろうか。
11月の上映が実際に出来て、思った通りの冬がやってきた。
まだまだ何も見えない状況。
あえて春先に予定を組むということだって出来るけれど。
劇団がなくなって、状況も更に進行して、より難しくなっている。
今、撮影現場でも厳しい制限がかかっている。
検温、マスク、消毒は当たり前で、ガイドラインもある。
一番厳しいのがロケで、今は中々誘致されることがないのだという。
撮影チームは大人数になりがちで都内から移動というのは喜ばれない。
チームの中でもなるべく濃厚接触者が出ないように徹底している。
誰かの感染が発覚した時に、濃厚接触者さえいなければ撮影は止まらない。
そういうことが徐々にわかってきているからだ。
だから余計に、ガイドラインの徹底がされている。
一時期完全に止まった撮影が再び動き始めているのはそういう中でだ。
舞台などのイベントよりも優位なのは、そこに観客が不在なことで。
不特定多数との接触はないということだけだ。
やはりもし足を止めないのであれば。
この冬は映像企画しかなかったのだと思う。
これを始めた2か月前は再び感染拡大するかどうかはわからなかったけれど。
それもスピード感を持って、いつでもやれる状況にして。
脚本もキャスティングも終わっているという状況を全部準備した映像企画だ。
復活上映はいつもそうなのだけれど。
それまで応援してくださった方の推薦で実現するからそんな方々が多いはずだと思ってた。
でも実際は初めて観に来てくれる方が想像以上に一定数いる。
今回も見逃していた方々がいらっしゃったことをSNSで知った。
SNSだけだから、きっとそれ以上にいたはずで。
やはり発信し続けることこそ大事なのだと改めて思った。
10月の舞台、11月の上映、それを越えて何があるか。
今、予定しているものがなかったらどんな気分だったのだろう。
出演したドラマと、このプロジェクトだけが残った。
コロナ禍がなければ、舞台挨拶やロビーでのお見送りもあったはずだ。
そこでこのプロジェクトのことだって話せたのだと思う。
直接話を出来ないというのは想像以上に壁が高い。
毎日毎日、昨日まで実家の猫に餌をやりに通っていた。
途中の児童公園に、中学生らしきカップルがいた。
二人は距離を開けてベンチに座っていた。
ソーシャルディスタンス。
いや、それがもしなかったとしても、微妙な距離感はあったのだと思う。
今はLINEやらで連絡を取ったりも出来るのかもしれないけれど。
お互いがまだ親密になることもない微妙な関係であることははたから見てもわかった。
会話すらあまり出来ていない。
ただ少し離れて座っているだけだった。
何もなければきっと男の子は手を繋いでみようかとか考えていたかもしれない。
けれど、それすら奪う距離でただ座ることしか出来ないようだった。
その後、告白を出来たのかどうかもわからないけれど。
あの絶対的な距離はきっと永遠の距離のように感じていたと思う。
接触してはいけない、距離を取らなくてはいけない。
ただ黙って座る二人の間に流れる空気は饒舌だった。
二人の全てをその距離が語っていたように思えた。
好意が目に見えないのに伝わってきた。
言葉がないのに饒舌であるというその状況は美しかった。
お互いがお互いを察するということを懸命にやっていた。
毎日こんなにアップデートを書いているのに矛盾するようだけれど。
言葉は結局は言葉でしかないと思う。
SNSの隆盛は、言葉というものをより重要にした。
もっとも古い表現手段の一つでもある言葉が必要以上に重くなってる。
それは「察する」ということを奪うことでもある。
説明不足なのだと言う人がいるけれど、説明しなくても察することが出来るかどうかも重要で。
生きることの大半は、僕は察することなのだと思う。
もちろん、こんなプロジェクトを立ち上げれば説明をしていかなくちゃいけない。
でも、芯にあるものはもう説明してもしきれるものじゃない。
あの二人の間にあったものはもう言葉では難しい何かだったのだと思うよ。
今、僕たちはきっと。
何かを発信しなくちゃいけない。
器用な人はSNSでも、なんでもどんどんやっていけばいい。
芝居をするしか表現できない人は芝居をするしかないって思う。
説明をしたいんじゃない。
説明しないでも伝わるあの瞬間を僕たちはいつも求めている。
映画の中で、僕の演じる成瀬凛太朗は言葉少なくただただ感じ続けているように観えた。
僕はこの映画「演者」を企画段階から楽しんでもらおうと思っている。
僕の感じていることを説明するのではなく、届け続けようと思っている。
これはソーシャルディスタンスな表現かもしれない。
でも本当は直接話す以上に親密なやりとりなのだと思う。
心と心で直接繋がっていくこと。共感の輪が拡がっていくこと。
それを目指していく。
三連休の最終日。
連休に入ってからピタリと止まっているけれど。
僕が止まることはない。
ギリギリまで11月中に100人を目指そうと思う。
67日目が始まる。
小野寺隆一