祈りと欺瞞
vol. 52 2020-11-08 0
51日目終了。
演じることは大きく分けて二つの道から始まった。
一つは「祈ること」そのもの。
神事として、祈るために演じることは生まれた。
全世界に神にささげる舞が残っている。
日本の歴史上に初めて出てきたのも、古事記、日本書紀にある天岩戸の物語。
天岩戸に隠れた天照が顔を出すように踊ったのが日本の歴史における演じる最初だ。
もう一つは「歴史を残す」こと。
紙と教育が一般庶民にまで拡がったのは近代に入ってからだ。
それまでの識字率は低く、本などは普及していなかった。
その頃に歴史を伝え続けたのは演劇だった。
ギリシャ悲劇の木馬で有名な「トロイア」が空想の物語ではなかったことは有名だけど。
中国の三国志も長く演劇として一般に浸透し続けた演劇だった。
日本でも琵琶法師や、今も歌舞伎などで義経伝説が残っている。
今でいう「創作」と「ドキュメンタリー」は歴史的な経緯がある。
英語で祈ることが「PRAY」で演じることが「PLAY」なのも語源が同じなのかもしれない。
それはまぁ空想でしかないのかもしれないけれど。
二つの潮流があってお互いに干渉しながら、細分化していった。
「祈り」にとって最も重要なことは神との交信。
「歴史」にとって最も重要なことは事実を伝えること。
それはきっと今も様々な演じることの底に流れることなのだと思う。
リアルとは何かを問われたときには、常に二つの潮流から問われているのだと思う。
社会構造が複雑化することで、演じることは日常生活に浸透していった。
現代は誰だって何かを演じているんじゃないだろうか。
ガキの頃、大人は嘘ばっかりついていると感じたのは、大人が大人を演じていたからだ。
親は親を演じて、先生は先生を演じていた。
その根底に流れているものは一体何なのだろう。
神との交信がまだ政治と同じだった時代。
祈ることがマツリゴトだった。
現代からみたら非科学的なことも一種のトランス状態になるまで踊り答えを導き出した。
思えば政治も祈ることから始まっている。
僕はもうすぐ30年にもなる月日を演じることってなんなのかと考え続けた。
時にはトランス状態のようになって舞台上の記憶がなかったこともあった。
自分のうちなる感情に演じながら直接アクセスしてしまったということもあった。
あるいは淡々と事実を説明するという役割だったこともあった。
「演じる」ことは、人間という存在そのものについて考えて感じることだった。
何年間も映画監督を目指している人がいる。
ちょっと信じられないような映画マニアがいる。
何年間も作家をやっている人もいる。
色々な道を究めた人たちが映画監督をやる。
そういう中で僕はかっこつけて映画監督をやろうと思ってもしょうがないと思っている。
僕の持っている最大のものは「演じる」ことについて考え続けたことだ。
究めているわけじゃないけれど、僕にはそれしか残っていない。
「演技」とは何か?という大問題は意外に放置されていると感じている。
アメリカではすでにアクターズスタジオが絶対ということになりつつある。
ヨーロッパでもスタフラニスキー・システムが最重要になっている。
言語も文化も違うからそれを一概に評価することは出来ないけれど。
例えば、能の演技について説明できる演技論はあまり見かけたことがない。
日本でも、太田省吾さんぐらいしか能の演技について分析できていないと思う。
それでいて能の創始者の世阿弥が残した「花伝書」にある「華」については今も重要視されていたりする。
日本に海外の演技論がいまいち定着しないのは言語的な問題や、風習的な問題が関係している。
新劇的な大きな演技をくさいと安易に言うような風潮も最近は多い。
逆に日常的な演技は出来ても、歴史ものや半沢直樹のようなフィクション度が高い作品でのディフォルメが苦手な俳優が増えているとも聞く。
結局、今は「演技」は俳優個人のひきだしの一つになっている。
こういうのが得意な俳優、というくくりで、演技は放置されているように感じる。
あるいはこういうのが得意な演出家、監督、というくくりで作風に依存しているようにも感じる。
役者に涙を流してほしいとト書きで書いていることは多いけれど。
役者が涙を流すということの構造について、どこまで理解が及んでいるのだろうと感じる。
「演じる」ことについて考えるのは迷宮に入っていくようなものだ。
なぜなら人間という存在そのものなのだから。
子供の狸寝入りだって、為政者の演説だって、儀式だって、演技なのだから。
様々な位相があって、そのどれも的確に指摘できる人なんてほとんどいない。
考え続ければ、そこはすでに沼のような場所で、どこまで進めばいいのかもわからなくなる。
そもそも「演じる」ことってどこからどこまでを定義すればいいのかすら。
まるで地球が劇場なんじゃないかと思えることすらある。
アメリカのテレビショーのいけすかない司会者がつくったトランプ劇場が幕を閉じようとしている。
どんなカーテンコールになるのだろうか。
喜劇だったのか、悲劇だったのか。
どんな演出が待っているのだろう。
100年前に世界で初めて人種差別撤廃を国連で訴えたこの国から人種の坩堝であるアメリカを見て有色人種でありながら差別されない島国で過ごす僕たちは何を思えばいいのだろう。
実は僕たちこそ、日本人を演じているんじゃないだろうか。
そしてこれは始まりなのかもしれない。
レイシストというレッテルは次の大統領候補にも貼られ始めている。
世界中の政治家たちがこれからそのレッテルを貼られることを恐れるだろう。
自由の国フランスが震えているように。
日本人を演じることさえ、その標的になるかもしれない。
何が生まれて、何が壊れたのだろう。
アメリカだけの事じゃない。きっと僕たちは問われている。
現代を生きる全ての人が「演者」だ。
僕は何を祈るのか。
僕は何を伝えるのか。
僕はいつまで演じ続けなくてはいけないのか。
世界という劇場に何を届けるのか。
答えのないまま52日目が始まる。
小野寺隆一