LIVE IN
vol. 17 2020-10-04 0
16日目終了。
コンサート、ギグ、リサイタル、演奏会、他にも色々。
様々な言葉がある中で「ライブ」という言葉が自分はとても好きです。
「生きる」というそのままの言葉が凄く合っていると思うからです。
ライブハウス、ライブを見て欲しい、そういう言葉の奥に「生きること」がある。
コロナ禍において、ライブへのバッシングというのはなんだかそんな意味に見えました。
「生きる」を否定するな。
そういうアーティストの叫びを何度も目にしては、歯噛みしました。
台本がある物語の世界はしばしば、たとえ言葉に使われます。
「芝居じみている」とか、「安っぽい芝居」とか、「芝居がかっている」とか。
最近では「劇場型」なんていう言葉が出来たりして「劇場型内閣」なんて目にしたり。
確かに事前に段取りが決まり、口にする言葉が決まっている。
そして人に伝えるために、ディフォルメしたり、強調することもある。
かと言って、それを不自然に感じさせないための様式美だったり、テクニックだってある。
ただ、その、「芝居」と「ライブ」が対義語のように捉えている人も時々いて。
それはもう違うんだよと言いたくなってしまう。
音楽だって、多くは歌詞が決まり楽譜があり、段取りだってある。
それでもステージで「生きる」わけです。
だから芝居だって変わらないのです。
舞台に立って芝居をするだけではなくて、その場で生まれてくる感情がある。
それは多分、感じるしか出来ないものなのだけれど。
悲しいという感情の中で笑ったり、嬉しい気分でつっぱってみたり。
怒っているけれど平常心のフリをしたり。
そうやって、芝居をしていると色々な感情が浮き上がってきて。
その場その場で、そんな自分の心をそのまま出すのではなくて表現にしていく。
ほんの小さなベロシティが表現の幅を広げていく。
それはまさに、僕はライブなんだよなぁって思うのです。
悲しいシーンで悲しんだりする表現は、僕なんかは一番好きじゃないです。
芝居とは嘘をつくことと思っている人が意外にいるけれど。
芝居とは嘘をつかない事なんだよなぁというのが実感です。
その場で、その瞬間に、生まれ続けるモノ。
それってとっても重要なもので、一回性のものです。
繰り返し稽古はするけれど、その時々で生まれてくるものは違う。
そして、それこそ、一番大事なものと思ってます。
心から湧き上がる感情に嘘なんかないからです。
そこにあるのは、本当しかないからです。
とは言え、自分の心にとっては違和感のあるセリフやシーンだってあるのですけれど。
それしかなくて、それが続くと、俳優は実は壊れるんだよなぁって思います。
多分、小劇場の世界で芝居についてずっと考えて来たことの全ては。
「生きる」とは何かを考え続けることだったのだと思うのです。
僕なんかでも時々映像の現場に行くことがあるのですけれど。
映像の現場でも、やはり役者たちは「生きる」べきなんだなと痛切に思ったことがあって。
それは「セブンガールズ」の現場作りの僕の中のキーポイントの一つでした。
出演者全員がカメラの前で生きること。
知らないスタッフさんや共演者の中で誰にも知られていないという孤独感がなく。
いつもの舞台のように、そのまま芝居の中で生きることが出来たのなら。
それは、すごい作品になるはずだと僕は信じていたのでした。
音楽をやっていた時のレコーディングも。
舞台をやっていて、製作した映画も。
ああ、やはりこの中に「ライブ」がなければいけないのだとハッキリわかりました。
今日、夕方ごろに稽古場に行き、いよいよ開幕する舞台の稽古を観ました。
まだ最終通しがあるし、小屋入り後の場当たり稽古も、ゲネプロもある。
本番が始まったって、千秋楽まで変わり続けるのですけれど。
今日の今の段階で、金子透という俳優が「ライブ」をやりはじめていて。
今はまだ段取りやセリフを確認しながらの中でも、生きるということをしていて。
他にもね、何人かにそんな瞬間を感じて。
そうそう。このライブ感が全員に拡がっていくぞ。
作品の中で生きる奴がどんどん増えていくんだなと感じて。
わくわくしたのです。
舞台本番しか観れないお客様にはわからないと思うのですけれども。
じっくり確認したり調整する役者もいれば、作品の中に入る準備の人もいて。
今のこういう段階というのが作品が出来る重要な過程なのです。
その中でライブに進む役者もいるのです。
30年もそんなことを考え続けたせいでしょうか?
多分、僕は一生、どんな場所に立っても「ライブ」について考えると思います。
むしろそれこそがテーマと言ってもいいのだと思います。
小野寺隆一