今しか観れない
vol. 10 2020-09-27 0
9日目終了。
常に今いる場所を確認して。
常に向かうべき先を忘れず。
つまらないことはつまらないねと思えればそれでいい。
面白いことってこういうことだよねと見つけられたらそれが一番だ。
今、プロジェクトページに記載した舞台が目前に迫っている。
劇団前方公演墳 旗揚げ22周年公演「東京しもきたサンセット」
生の舞台はこのコロナ禍で非常に厳しい場所に立たされることになった。
少しずつ緩和されているけれど、今も座席数は半数以下という状況は変わらない。
この舞台の制作で何度も電話や直接、劇場さんと話をしてきたけれど。
その厳しさは今も続いているなぁというのが実感。
実際、自分の知っている公演がいくつも中止になっている。
この公演も本来は6月に予定していた物を10月に延期することになった。
何が一番厳しかったのかと言えば、すでにその前から劇場にクレームが入っていたことだ。
うちの公演ということではなく、上演中の舞台があれば電話が鳴ったのだという。
自粛警察なんていう言葉があったけれど、小劇場にも厳しい目が向けられていた。
今、少しずつ日常を取り戻しつつある中でも、比較的小劇場のガイドラインは厳しい。
それは国のガイドラインもだけれど、むしろ自主的なガイドラインの厳しさでもある。
社会的に演劇が攻撃されるような状況は長く尾を引いてしまう。
公演の内容をリンク先で確認していただけたらわかるけれど、かなり厳しくしている。
まず何よりも安心感を持てるようにしないといけないという難しさがある。
例えば元々劇団のファンの方でも来られないという状況がある。
遠方からの場合は、やはり移動という大きな壁がある。
持病を持っている方であれば、なるべく移動するべきでないということもある。
高齢者と同居している方であれば、親族に止められる場合だってある。
職業柄、制約のある人だっている。
こればかりは仕方がないよと、来場できない理由がそこにある。
ただそんな状況が一番ネックなわけではないのだと思う。
劇場や劇団が、舞台に来てください!と大声をあげづらいことこそとっても厳しい事だ。
その宣伝にすぐにクレームや、攻撃的なレスポンスがつくとは思えないのだけれど。
まぁ、もちろん、つく可能性もあるのだけれどそれよりも。
もしも、何かがあった時に、こんなことを言っていたよ!と社会的制裁をされるからだ。
オフィシャルであればあるほど、宣伝に制限をかけられているような状況。
叩くのがただの自粛警察だけならまだしも、マスコミまで取り上げる状況は今も続いている。
十分な安全対策をしているということのアピール以外は非常に困難な状況。
今も結果的に公演の中止を発表している舞台だって続いている。
それは公演をした方が大きなダメージが残るとわかりきっているからだ。
想像通り、舞台の予約は苦戦している。
こんな状況だからギリギリまで予約しないという人がいるのだとしてもだ。
今までの予約状況と半数の座席というのを加味しても苦戦すぎる。
どんどん不安が強くなっていく。
どんな舞台になるのだろうと。
それでも。
こんな時でも舞台に来てくださる方がいる。
小劇場に演劇を観に来てくださるというシンプルなことがこれほど感謝できる時期もない。
そしてそんなお客様のために、たった一つのシーンや、たった一つの台詞に悩んでる役者がいる。
徹底した安全対策に戸惑いながらも、毎日、検温をしている役者たちがいる。
今、この時期に、そんな役者を生で観劇できることは重要なことじゃないかと思う。
だって、今しか観ることが出来ないものっていうのがあるはずなのだから。
こんな世界になったのに、舞台に立っている役者から何を感じるのかは人によるけれど。
そして、そんな心のやり取りの向こう側にきっと新しい何かがあるんじゃないかなぁ。
自分はそんな新しい何かを見つけ出すのはもう目前だと思っている。
そこには確実な創造力は必要だけれど。
役者というのは難しい商売だなぁとつくづく思う。
最近は少し見えなくなっているけれど、タレントと役者とは別の商売だ。
役者は他者を演じることが仕事で、タレントは自分のパーソナルを売ることが仕事だ。
だから実は正反対と言ってもいい。
役者は本来はパーソナルが見えなければ見えないほど、その作品の中の役になる。
ところが今はSNSがあって、動画配信なんかもあって。
その中でセルフプロデュースをしていくとなれば、どうしてもパーソナルを出さざるを得ない。
だから俳優の中には一切SNSをやらない人がたくさんいる。
自分自身を売ってしまえば、もうそれは俳優とは別のタレント的な動きになるからだ。
それでも時代はセルフプロデュースの方向に傾き始めている。
緊急事態宣言、ステイホームの頃。
リモートでもいいから何かを届けたいと仲間たちと話したけれど。
役者によってきっちりと線引きがあった。
それをサービス精神のあるなしなんていう境界線で区切るのは完全に間違っている。
6月の公演の延期を決定してからのあの家に居た時間。
それを越えての初の舞台で、あいつらは何を見せてくれるだろう。
自分たちに出来ることは芝居だと言い切ったあいつはどんな舞台にするだろう。
ステイホームでも何かをしたいと、動き始めたあの子はどんな芝居を創るだろう。
そんな公演は、きっと、今しか観ることが出来ない。
僕だってそんな期間に走り始めた。全てをもう一度見つめ直して。
そしてそのタイミングに向かって加速し続けている。
コロナ禍でつくづく思ったのは「心」を一番最後の問題にされることだ。
不要不急という言葉はあっさりと音楽や演劇や映画を切り捨てていった。
体を蝕むウイルスのことを真剣に考えることは理解できたけれど。
心と体を別のものとしてしまうことに恐怖感さえ覚えた。
僕が最初に演劇の奥深さを知った稽古用の台本。
谷川俊太郎さんの書いた詩「少女漫画の一場面のためのエスキス」にこんなセリフがあった。
「心(こころ)と肉(ししむら)を分別するなどさかしらなことよ」
心を蝕めば体調は狂う。
体調を崩せば心が狂う。
それはもう医学的にも立証されていることだ。
現代のストレス社会で、真の健康を目指すのであれば、心の滋養は必然。
誰だって十代の頃に響いた何かがあったりするじゃないか。
それがなかったら自分が壊れていたかもしれないというような何かが。
そういう全てを不要不急という言葉で切り捨てる残酷さにただただ怒りを覚えた。
「魑魅魍魎は情理を尽くした言葉のうちにもひそんでおるわ」
前述した詩の続きだ。
10代からずっと暗唱しているから、どこかで記憶違いで間違っているかもしれないけれど。
魑魅魍魎とは、社会そのもののメタファーだ。
今、魑魅魍魎が蠢く中で舞台の公演をすることそれ自体と。
その舞台の上に立つ仲間たちと。
それを目撃して欲しいと強く願っている。
あいつやあのこたちの、心を観て欲しいと祈っている。
そこにはもう、面白いだの、面白くないだのすら関係ない。
あの時間を越えたあいつらの想いを感じることが出来たのなら。
それが全てだ。
そして舞台は、その日、その時、その場所でしか観れないものなのだから。
魑魅魍魎と戦っているのだから。
10日目がはじまる。
小野寺隆一