変化の年の変化の季節
vol. 9 2020-09-26 0
8日目終了。
時間の流れは絶対的なものではない。
光のスピードになれば時間はずれていく。
けれどそれ以上に時間は感覚的なものだ。
苦しい時間帯の1分は永遠のように長い時間だし子供の頃の時間はあっという間だった。
一瞬を永遠に感じることだってあれば、何十年という時間がまるで一瞬のように感じたりする。
時々、自分の周りで流れている喧騒に、タイムリープしてしまったかのような。
ああ、気付けば一日が終わろうとしているという瞬間にぞっとする。
自分に残されている時間とは時計が刻む時間ではない。
自分が認知している、意識している、その残り時間だ。
気付けば何もかもが遅かったというような諦観をしてしまう日が来やしないか。
気が気じゃなくなる。光陰矢の如し。
いつだって突然やってくるんだ、あいつは。
第二週の二日目。
第二週に入れば一気に伸び方が落ちてくるのは経験済み。
ここからは精神的に苦しくなっていくけれど地道に進むしかない。
常に考えて、その日その日を自覚していくこと。
それにしても急激に秋になった。
先週はまだまだ暑いと思っていたのに。
秋は雨の日が来るたびに空気が冷たくなっていく。
気付けば半袖では外を歩けなくなっている。
秋に舞台をすることが多いからか、いつも思う。
間もなくあの映画公開から2年という日がやってくる。
そして、撮影から4年という日もやってくる。
これからきっと秋が来るたびに思い出すことになる日々。
急速に涼しくなると、また思い出すことになるだろう。
あんなに暑くて厭だった夏が懐かしくなる。
そんな夏を惜しむ気持ちがやってくるたびに、繰り返してきた秋が蘇る。
日常は厭でも同じことの繰り返しだ。
毎日毎日、腹が減るし、毎日毎日、何かに悩んで苦しんでいる。
泣きたくなることだってある。
繰り返しだから、そんな暇はないと振り切る。
思えば、自分は切り替えることが得意になっている。
つらいことなんて当たり前のことだし、眠い目をこすることだって当たり前のことだ。
精神的な負荷を残さずに、前向きに足を出す切り替えは出来ない人には出来ない。
無理してそれがそのまま無理になる人もいる。
そういう意味では自分は恵まれているのだと思う。
繰り返しの中の苦しみから、僕は逃れるすべをいつの間にか身に着けていた。
いや、そうやってこないと、きっとどこかで壊れてしまうという直感で進んできた。
何も変わらないじゃないかと心で叫びながら。
何かは変わっているのだと信じて進んできた。
春や秋は変化を感じやすい。
日々のルーティーンの中で、そんな変化の中に身を置くからこそ進める。
安定を人は求めてしまうのかもしれないけれど。
安定に人は飽きてしまう生き物でもある。
季節の変化を楽しむぐらいの余裕を持つことだ。
思えば2020年は変化の年であると今年の初めに思っていた。
春、秋に関わらず、変化し続けているという実感がある。
地に足を付けよう。
今、自分のいる場所。
今、自分の足を前に出す場所。
目をつむって歩けば、どこかにぶつかってしまうよ。
確かに足を出さなければ、どこかで転倒してしまうよ。
一本道に見えて、そこは曲がりくねって、舗装もされていないのだから。
そしていずれやってくるのさ。
分かれ道だって。クロスロードだって。
自分が今まで手にしてきたものに誇りは持っても価値は持たない。
そこに置いていかれるなよ。
気付けば時間は過ぎているぞ。
拡がるはずの世界を自ら閉じてはいけない。
そんな時は下を向かずに笑うのだ。
どうしても足が出なくなったら。
苦いコーヒーでも飲むさ。
どうだ?大人っぽいじゃないか。
9日目が始まっている。
すぐそこで消えた台風が雨を運んできた日。
今日踏み出す一歩が例え小さくてもいい。
意外に一歩しか進まなかった日のその一歩が後から重要だって気付くかもしれない。
そしてまた笑う。
その笑顔を見て、人はお前は悩みがなくていいなと言うだろう。
それこそ僕の思うつぼさ。
僕が今日を今日として生き抜いている証拠なのだから。
小野寺隆一