竹の芸術祭の意義について改めて
vol. 8 2024-08-28 0
みなさま、こんにちは。私たちEDAYAのクラウドファンディングの挑戦も残すところあと3日となりました。これまで応援くださった皆様、本当にありがとうございます。まだまだあとちょっとで達成率、半分というペースでもありますので、引き続きSNSなどでのシェアなどご協力いただけましたら嬉しいです。
そして、今年の芸術祭ももう目の前。今年、そして未来へ向けて、芸術祭を続けていくため、今回のクラウドファンディングです。私たちのスタンスに少しでも共感くださった方、リターンにも入れさせていただいたオンラインでの交流会/ 報告会でもその辺り、話を聞いてみたい方、よかったら、ぜひ応援よろしくお願いします。
それはそうと、今日は改めて、竹の芸術祭の意義について、書いてみたいと思います。
皆さんは、日本の竹と東南アジアの竹の多くが異なることをご存知ですか??日本の竹は地下茎で広がるのに対して、東南アジアやアフリカの竹は地下茎では広がらないため、日本のように竹が広がることによる問題は起きにくいです。日本の竹は多くが単軸型でバラ立ち型なのに対して、東南アジアやアフリカなどの熱帯の竹の多くは、連軸型の株立ち型!つまり、フィリピンでは、竹は木のように切ればなくなってしまうものなので、国を挙げての竹のプランテーション促進の政策まで出てきている現状です。
こちらの記事より抜粋! https://chikurin-park.com/knowledge_02
でもここで、私の頭にチラつくのは、日本における森林の姿や竹林の姿。1960年以降薪を使わなくなったことも要因で荒れた雑木林、1970年代以降想定した輸出ができなかったことで荒廃した人工林、竹籠を使わなくなり、筍が輸入されるようになったことで広がっていった竹林。
私は、一度人間の手が入ってしまった自然と、人間の関係性を考えるにあたって、適切な管理の程度を考えることがとても大事だと思っていて、プランテーションという、植え続け、採り続けることが前提の仕組みには違和感があります。
個人的には、程よく植えて、程よく使う、輸出入の仕組みに頼らず、ローカルでの循環を生むことのできる範囲で、植えて、使うこと、この適切なあり方を探ることが、森林の未来を作っていくのではと思っていますが、どうでしょうか?そして、もしそうだとしたら、そのちょうどよい程度はどこにあるのでしょうか?そして、鍵である、程よく使う、をどう啓蒙していくことができるのでしょうか?
きちんと説明すると、これまで続けてきて、今年10年目になる竹の祭典の背景には、このような考えがあります。竹と良いお付き合いをする人、できる人を増やしていくのが大切だけれど、そもそも、竹を触ったこともなければ、切ったこともない人が多い中で、やっぱり、私たちの役目は、教育/ 啓蒙の部分にあるのかなと。そんな思いで、竹と触れる、使ってみる、五感で感じてみる、を大事にして、9年間、竹を使った演劇、アート、音楽、建築など様々な切り口で、子どもから大人まで関われる芸術祭を行ってきました。
今年の芸術祭ももう目の前。本当に意義のあるものを作り、つなげていきたいものです。
写真は2019年の竹の芸術祭より。竹をストーリや小道具、衣装にまで、さまざまに使った演劇を、地域の高校生たちと制作し、発表しました!
皆様、最後まで応援、どうぞよろしくお願いします。