戦後のアニメーション
vol. 9 2026-02-25 0
太平洋戦争後のアニメーションの流れの中の「戦え!オスパー」
(本文中敬称略)
1957年東映の子会社だった東映動画は練馬区大泉学園に移転、新スタジオを構えます。移転先は現在の大泉スタジオと同じ場所でした。1958年TV業界では相次いで民間TV局が開局します。その需要に応じ数々のアニメ制作会社が立ち上がっていきます。当時のアニメーションの主流はCMアニメの制作でした。企業からの要請があり、製作費はアニメ制作プロダクションを無理なく運営できるレベルの料金で支払われていた時代です。
1959年東映アニメーションは劇場用アニメーション制作、CM制作のため社員を求人します。この頃 池田宏、小田部羊一、高畑勲、黒田昌郎たちが東映に入社します。↓マルチプレーンカメラを使用した「安寿と厨子王」の撮影時のショット。現在は練馬区石神井公園隣の郷土資料館に保管されています。大泉学園駅の壁に貼られている記念写真も同じ撮影機の物です。
1960年東映でアニメ映画「西遊記」が完成します。この作品で東映に招かれた手塚治虫はアニメーション作品の制作現場で原作、制作に参加します。彼はこの経験から多くを学び、虫プロで彼の長年の夢だった最初のTVアニメーション(同時に日本初のTVアニメーション作品でもある)鉄腕アトム(フジTV系列1963年1月1日~4年間)を制作します。虫プロダクション設立からわずか半年余りの時期でした。制作スタッフは東映から移動してきたり、虫プロで新たな求人を取って補充されました。この作品は良くも悪くも日本のアニメーションの方向を決定付ける作品になります。セルアニメの制作期間のスピードアップと、製作費の削減のために考えられたアイディアが数々投入され、それらはディズニーをはじめ後に海外で高い評価を得る日本アニメの演出の礎になっていきます。反面、虫プロが低価格でアニメ制作を受注したため、そこで製作費の相場が形成され、低賃金で過重労働を強いられるアニメ業界の構造が出来あがってしまうことになりす。余談ですが、安彦良和は1970年虫プロ養成所に入り、虫プロ倒産の1973年まで在籍。倒産の話でアニメ部が浮足立つ中、淡々と仕事をこなしていたとお聞きしています。その頃描かれた原動画が「さらば宇宙戦艦ヤマト」のラストシーンであることは有名です。
それまで、劇場に行かないと観られなかったアニメーションが自宅のTVで見られるということに、子供たちだけでなく大人も熱狂し、TV画面にかじりつきました。フジTVに後れを取ってはいけないと、民放各局は競い合うようにアニメーションのTV作品を制作に入ります。エイトマン(TBS系1963年11月7日放映開始~)、狼少年ケン(日本教育TV1963年11月25日~)少年忍者風のフジ丸(NET系1964年6月7日~)。アトムに遅れること3年、戦え!オスパー(日本TV系1965年12月14日~)は記念すべき日本TV初のアニメーションとして放映スタートします。
アニメ業界の経営構造が構造不況で形作られたことにより、アニメ制作会社は再生産に見合わない安い受注金額が続いたことで、負債が蓄積されていきました。そして1960年代中盤から1970年代にかけて多くのアニメプロダクションが経営危機に陥り、解散、消滅していきます。後にデジタルアニメが普及してアニメの生産体制が改善されるまでは、この構造不況が延々と継続していきます。
東映動画は72年のリストラで経営危機をいったんはしのぎます。この頃東映動画社内では、労働闘争が激化していました。宮崎駿などはその先鋒だったとお聞きしています。虫プロは(要因は多々あると思いますが)、多大な負債を抱え73年に会社倒産します。業界全体にこのような逆風が吹き荒れる中、日本アニメーション、サンライズ、シンエイ、などのプロダクションがたくましく誕生し、大ヒット作、名作の実績を作り、業績を拡大していきました。
長い話になるのですが、このあたりの経緯は本クラウドファンディングリターンの中にあるエッセー集「TVアニメの黎明期と戦え!オスパーの時代」で改めて整理して、資料を交えて語りたい.と思います。
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