ヤマケイ社員による「山小屋の思い出vol.9」を紹介します!
vol. 26 2020-07-10 0
小社社員はさまざまなかたちで山小屋でお世話になっています。
そんな社員による、山小屋での思い出話をご紹介します。
第9回目は、入社10年目、広告部 中橋秀和がお届けします!
どうぞお付き合いください。
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山小屋で夏を過ごした高校時代
今から約40年前の高校時代の2年間、夏の1か月を新潟県の頚城山塊の黒沢池ヒュッテで過ごしました。
お世話になっていたスキー学校が所有していた山小屋で、校長の「小屋を手伝ってくれたらスキーをあげちゃう」という言葉に、うかつにもOKをしてしまったのです。
黒沢池ヒュッテは中学生のとき、残雪豊富な春に利用したことがあります。
そのときは、独特のドーム形状が素敵な小屋で、朝食のクレープがおいしいかったということと、さらに、このときは妙高高原からヘリで火打山の肩まで上がり、火打山から大滑降した後に小屋でまったりする、という今考えるととてつもなくバブリーな山スキーをしていたので、楽しかった思い出しかありません。
黒沢岳。反対側に黒沢池ヒュッテがある
しかし、お手伝いで山小屋に入るのは、そんなに甘いものではありませんでした。
まずは、近道をするということで、燕温泉から大倉乗越を超える急登ルートで山小屋入りします。以後、10日に一度はボッカのためにこの道を往復することになりました。
また、素敵なドームも、当時は2階のフロアが傾斜しており、寝ている間にフロア中央に流されてしまうこともしばしば。ぐっすり寝る方法を研究しましたが、ついに最後まで馴れることはありませんでした。
さらに、朝になれば「おかわり自由」のクレープ配膳地獄が毎日繰り広げられました。
そして極めつけは、小屋開け直後に行う電話の有線張り。
燕温泉から黒沢池ヒュッテまで、電話用のケーブルを這わせていくのですが、なるべく直線で小屋に向かうようにするのです。笹薮だろうが、大木が邪魔していようがかまわず直進です。
切り傷で、顔はボロボロ。アブを刺激して襲われても、めちゃくちゃ重い有線の束が邪魔して払うこともできません。
苦労して開通させた有線電話からは、到着遅れの登山者の捜索依頼が入ってきます。こうして何回か暗くなった妙高の外輪山を走り回ることになりました。
当時の私は「スキーがうまくなるための修行」と信じて、山小屋の1か月を乗り切りました。山小屋で働くことで、なんでスキーがうまくなるのか、今考えるとまったくわかりません。若いってすごいですね。
春、中学生のときにヘリで登った火打山に再訪(右が中橋)。今はスキーで5時間かけて登る
このように私にとって「山小屋」とは、つらく厳しい経験が結びついているのですが、山スキーにはまっている今、やっぱり最も好きなエリアはこの頚城山塊です。
残念なことに現在は山スキーのシーズン、小屋は営業していません。
でも、時間というものは、経験したつらさや厳しさを麻痺させてしまうのでしょうか。
不思議なことに、火打山で滑るたびに、「また黒沢池ヒュッテで過ごしたい」と思うのは、なぜなんでしょう。
広告部 中橋秀和
きものや、スキー雑誌の出版社1、スキー雑誌の出版社2を経て現職に。
山スキーとトレイルランニングが好きな元サーファー。
頚城山塊以外にも、越後のお山に出没する。写真は守門大岳にて。
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また、山小屋の思い出を紹介していきます。
引き続きどうぞよろしくお願いいたします。
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