なぜ田中泯に惹かれるのか
vol. 7 2021-12-10 0
プロジェクトページ「完成後に製作委員会を組成するという方法で公開を目指す」でもご紹介しておりますが、「名付けようのない踊り」は完成した作品を実際に観ていただき、公開を応援してくださるパートナーを探しました。賛同いただき、実際に製作委員会にご参加下さった方からのご寄稿文をアップデートして参ります。製作委員会とクラウドファンディングは異なりますが、この映画の成り立ちゆえ、応援下さっている皆様と思いは同様です!
今回は、山梨放送プロデューサー/荻野弘樹 様よりメッセージを頂きました。
荻野様は製作チームの誰よりも先に田中泯さんと出会い、泯さんと番組を作っておられます。その際のエピソードと共に「田中泯の魅力」についてご寄稿いただきました。
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犬童一心監督が「メゾン・ド・ヒミコ」の出演をお願いするために決死の覚悟で田中泯さんを訪ねたという文章を読んで、同じような記憶がよみがえりました。
京都から実家のある甲府に戻り、新聞記者やラジオ・テレビのディレクターとして働きながら、毎年泯さんが開催していた白州のアートフェスに行くことが楽しみでした。憧れの泯さんに少しずつじりじりと距離を縮め何とか自分の番組に出てもらえないかと企画を作り、当時旅番組を一緒に作らせていただいていた永六輔さんと何度か白州を訪ねました。永さんも大好きな泯さんを訪ねることが出来た日は終日ご機嫌でした。
同じころ富士山をテーマにしたドキュメンタリー番組(※)を作っていました。このシリーズで詩人の金子光晴が作った反戦詩の多くが疎開先の山中湖で生まれたことを描きたいと思い、企画書を書きました。戦争中、戦意高揚の意匠として利用された富士山。その富士山を「糞面白くもない」と表現した金子光晴。ナビゲーターは泯さんしかいないと思い、企画書を持って、犬童監督同様、決死の覚悟で泯さんを訪ねました。今回は永さんという最強の後ろ盾がいません、緊張でほとんど覚えていないのですが、金子光晴の足跡を辿ってほしい、朗読もお願いしたい、ということは伝えたと思います。
「いつになったら〜詩人 金子光晴」撮影前の打合せ風景 左から荻野弘樹・田中泯・矢崎仁司(構成)
結果、泯さんは半年かけて金子光晴を研究してくださり、撮影に臨んでいただきました。泯さんとの山中湖での3日間は奇跡的に天気に恵まれた上、不思議なことが度々起きました。金子の住居跡を泯さんが訪ねると突然風が吹き始め落ち葉が舞い続ける、湖畔で踊る泯さんの頭上にトビが舞い続ける……などなど。見えない力に助けられている感覚がありました。金子が戦争への協力を拒否した山中湖から見える富士山のすそ野には北富士演習場が広がります。演習場ゲート前で朗読する泯さんには鬼気迫るものがありました。
金子光晴の詩を朗読する田中泯(北富士演習場前)
他者の痛みを想像する、人類は他人の中身を想像する、つまり他者意識を持つことができる唯一の生き物なのに、新自由主義の拡散とともにその意識が薄くなりつつあると山梨日日新聞のコラムに泯さんが書いていました。金子光晴は他者意識で腹いっぱいの孤独な人だったのではないかとも。泯さんはその金子の内なる他者たちと息を合わせて朗読、踊ってくれました。
山中湖畔にて富士山を背景に踊る田中泯
世の中の流れに気づかないうちに流されないための“重石”が泯さんのコトバとオドリにあると思います。「名付けようのない踊り」には犬童監督がどうしても見てもらいたいと撮り続けたその泯さんのコトバとオドリが詰まっています。より大勢の方に観てもらいたいと思い、製作委員会に参加させてもらいました。本作の推薦コメントを寄せていただいた多くの著名人の方々がなぜ泯さんに憧れるのか。永さんもそうでした。「名付けようのない踊り」を見ると分かる気がします。
山梨放送プロデューサー 荻野 弘樹様
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写真はいずれも2005年12月 撮影:石原淋
(※)「1億人の富士山スペシャル いつになったら 詩人・金子光晴」山梨放送 48分 2005/12/25
「地方の時代」映像祭優秀賞を受賞
ダンサーの田中泯が、詩人金子光晴が代表作を生み出した山中湖を訪ね歩き、金子が書いた一節「糞 面白くもない富士」という表現の真意を探る。また家族や研究者らへのインタビューを通して、彼の作品 をより深く読み解く。