中国文学・演劇との関わり④ (奥田)
vol. 10 2023-08-20 0
おはようございます。
三人之会主宰の奥田です。
しばらくの間、私が2018年に留学していた中国・北京の中央戯劇学院(略称:中戯)について話をしてきましたが、本レポートを最後に舞台を日本に移せたらと思います。
前回のアップデート③では、浅利慶太と鈴木忠志と中戯の関わりについて述べました。私と特段関係のないこの二人に長々と時間を割いたのは、中国の(特に)北京で演劇活動を行いたい場合は中戯と接触を持つことが最も有効であり、現に北京で大きな影響力を持つ二人の日本人演出家がそうしていることをお伝えしたかったからです。
劇団四季と中央戯劇学院の関係については述べましたが、実は北京の郊外、古北水鎮には長城劇場という、なんと鈴木忠志のために建てられた(!)野外劇場があり、2015年から鈴木忠志の劇団SCOTがここで公演・ワークショップを行ない、記者が大勢訪れるなど大きな注目を浴びていました(その余波で、留学中の私までが鈴木メソッドについて報告レポートをかかなければならなかったわけです、まったく。レポートはこちら→https://sites.google.com/view/sannninnkai/essay/%E5%8C%97%E4%BA%AC%E3%81%AB%E7%95%99%E5%AD%A6%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%9F%E6%99%82%E3%81%AB%E6%9B%B8%E3%81%84%E3%81%9F%E3%83%AC%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%88?authuser=2)
https://www.theatre-oly.org/blog/detail.php?id=17(長城劇場に関する記事)
https://performingarts.jpf.go.jp/J/pre_interview/1903/1.html(鈴木忠志へのインタビュー)
劇団四季も劇団SCOTも華々しく北京で活動していたわけですが、ここで舞台を比較的な地味な中央戯劇学院の東城区校舎へと戻そうと思います。
この建物を出て、左側、胡同の方に入っていくと、歩いておそらく1分程度で、とある劇場に着きます。
名を蓬蒿剧场(「ポンハオ劇場」)。
2008年に建てられた100名ほどの小劇場ですが、中国で初めて建築された完全インディペンデント(営利を目的としない)の劇場でもあります。(面白いことに中国の劇場史は日本とほとんど真逆の経過を辿っていて、まず公立と国立の劇場が立てられ、その後様々な企業の名が冠された劇場がービルの中などにー建てられ、21世紀になってやっとインディンペンデントの民間劇場が建てられるようになりました)
中戯から非常に近いため、学生たちもよくここでワークショップや公演などをやっており、私もよく訪れていました。
そんな中。
劇場の公演記録を見ていた私は、何年もここで演出をしているある日本人がいることに気がつきました。
こんな小さな劇場で、それも毎年。一体誰だろうこんなにコンスタントに訪中をしているのに、なぜ中戯の人たちは誰も何もいってなかったのだろう?と思い、その演出家について調べたのが、ことの始まりでした…。
中央戯劇学院のすぐそばには南鑼鼓巷という観光ストリートが位置しているのですが、その通りの名を冠した2017年南鑼鼓巷演劇祭というフェスティバルに、この演出家は自分の作品『絶対飛行機』を出品していました。さらに調べていくと、2016年に『終着駅』、2015年に『站2015・北京』、2014年に『中国の1日 2014』を上演(鈴木より早い…だと!)、中戯の目と鼻の先で上演をしているにもかかわらず、学生たちの話題に登ることはなくー鈴木が中央戯劇学院でほとんど神の如く崇め奉られていたのとは大きな違いでしたーそれでも100人の小劇場で毎年のように上演をしていた彼の行動は、私には何か、強い信念を持ったもののように感じられました。
(付け加えておくと、コロナ禍後、北京を拠点としているあるインディペンデントの中国人コリオグラファーと知り合いましたが、彼女はその演出家の名ー佐藤信ーと、『絶対飛行機』という作品を知っていました。ですから公立・国立の劇団や劇場で活動したいと考える人たちのアンテナには引っ掛からなくても、インディペンデントアーティストたちには彼の作品と活動はしっかり知られていたと思います)
この演出家について詳しく知るためーGoogleやYahooにつながりにくい中国のネット環境の中でーVPNと呼ばれるシステムを立ち上げながら必死に調べた私は、彼が鈴木忠志と同じくアングラ演劇と呼ばれる演劇運動の担い手であったこと、今は(2018年当時)座・高円寺という劇場の芸術監督であること、そしてその劇場で劇場創造アカデミーという演劇養成所を設立していたことを知りました。その時はそれ以上詳しく調べることはしなかったのですが、この演出家の名前と、養成所の名前は頭の片隅に残りました。
※※※
数多あるリアリズムのテクニックの中でも、スタニスラフスキーシステムと呼ばれる最も古い体系ーそれを基調とした演出を学ぶため、ソ連時代から演劇交流が盛んで社会主義を宣伝するためリアリズム劇が発展した中国の演劇学校を訪れた私を待っていたのは、「君は鈴木忠志/スズキメソッドを知っているか?」と、「能を知っているか?」という生徒たちの思いもよらぬ問いかけであったことは、前回レポート「中国文学・演劇との関わり③」で述べました。
スズキメソッドについては概要のみ知っていましたが、能については見たこともなく、私のアンテナの中には能の「の」の字も入っていませんでした。スズキメソッドは能の足拍子の身体性を取り入れていることから、おそらく「能・狂言」についても見たほうがいい、という先生の勧めがあったからだと思いますが、中国の若い学生がリアリズムではなく、日本の最も古い演劇に関心を持っていることの衝撃!をうまく言い表せないのですが、本当に頭をガツン!とやられたようでした。日本のアングラ、能。それまで一切触れることがなかった私にとっては、まさか中国の若い俳優たちが関心をーもちろん中央戯劇学院の生徒たち興味は「アングラ」演劇ではなく「鈴木」演劇でしたがそれでもー持っているとは夢にも思わず…。
(おそらく、日本の能を海外で知る日本人というのは一定数存在しているはずです。文学や演劇で言えばフランス留学中に能楽師の渡欧公演に接触した渡邊守章、ドイツ留学中に能についての修論を書いた多和田葉子、それにやや古いですが『鷹の井戸』を舞った伊藤道夫もそれまで能を学んだことはなく、日本から仕舞型付の本などを取り寄せて舞ったはずです)
夏季休暇と訪中公演の通訳の仕事のために一度帰国した私は、2018年の夏、座・高円寺で上演された『ひとつの机とふたつの椅子』という国際共同の演劇プロジェクトを見、そこで初めてポンハオ劇場に毎年訪れていたあの演出家の作品をー実はこの人の作品を見たのは人生二度目だったことが後にわかるのですがー目にしました。結局、秋に中国から完全帰国した私は、さらに半年後、劇場創造アカデミーという魔窟を訪れ、そこに2年間も所属することになるのですが、それはまたのお話に。
ここまでお読みいただきありがとうございました。リアリズムを学ぶための中国留学のはずが、まさか日本のアングラ演劇との出会いになるとは、本当に夢にも思いませんでした。
リアリズムへの憧れと、アングラ演劇が標榜していた前衛・実験。一見両立しないように見える二つの要素ですが、二つとも私が作品を創る上での大きな原動力です。なぜこんな厄介な症状を抱えるようになったか、ここまで長々と説明をしてきました。中国文学・演劇との関わりシリーズは今回が最終稿です。
これらの要素が、今回の公演、今回の作品(高行健『逃亡』)にどのように反映するのか、稽古内容や今私が考えていることなど引き続きアップデートを更新していきますので、どうぞ見守っていただければと思います。
それでは。
三人之会 奥田