【なぜ“津島”なのか】㉒ 学校へ行きなくなった娘
vol. 25 2023-06-03 0
津島出身の柴田明美さんは明範さんが暮らすに津島・赤宇木に嫁いだ。二人とも会社勤めしながら、りんどうの花を栽培した。5人の子どもに恵まれた。
しかし原発事故で二本松に避難した。次女、結美(ゆみ)さんの登校拒否が始まったのは、避難先の中学校に入学した直後だった。朝食を食べると吐いてしまう。下痢する。駄々をこねる幼児にように「学校行きたくない」と脚をバタバタさせる。部屋にこもって涙をボロボロ流して泣いた。学校で「浪江町(津島はその一部)の子は(放射能が)うつるから来るな!ばい菌!」といった言葉を浴びせられていた。
「こんな所にいたくない。津島の家に帰る!」と言う結美さんに、明美さんは「放射線量が高くて帰れないんだよ」と説得しても、結美さんは納得できなかった。「生きていたくない」と泣いた。
岳温泉の6階に避難していたとき、が部屋の隅で体育座りしてじっと青い顔をしてじっと座っている姿に父親、明範さんは「結美さんこの6階から飛び降りて、娘は死んでしまうので」と不安だった。診療所の医者に相談した。「これは避難による精神的なストレスだから、体調不良は時間をかけて見守るしかない」と告げられた。
明範さんと明美さんは覚悟を決めた。「子どものせいで避難したわけではない。原発事故のために避難しているのだから、娘を責められない。無理に学校へ行けとは言わず、見守るろう」と。
津島の小学校では、喜んで通っていた。その結美さんの急変に両親とも戸惑うばかりだった。明美さんは言う。「自分は自動的に津島の中学校に進学できると思っていたから、反抗したくもなる。やっぱり一番は津島のあの場所にいたかったんですよ」