実録! 公開初日の夜、クロコと。
vol. 2 2026-07-02 0
実録! 公開初日の夜、クロコと
――「どこにお金を入れるの?」
2026年7月1日、午後6時10分。群馬県伊勢崎市。窓の外は、雨の匂い。
編集長は、丸一日の営業から帰ってきたところだった。足は、もう棒だ。椅子に沈み込み、ノートパソコンを開く。画面が、ふっと灯る。
クロコ「おかえりなさい、編集長。ずいぶん歩きましたね。歩数、聞いてもいいですか」
編集長「聞くな。聞くと膝が痛くなる」
クロコ「もう痛いんですね」
――クロコが現れた。今日の相棒は、どうやら口が減らないタイプらしい。
クロコ「今朝は、どちらから回ったんです?」
編集長「最初は、あの人の家だ。……献辞を捧げた、故人の」
クロコ「……」
編集長「仏壇に手を合わせるつもりだった。でも出てきたのはお兄さんで、お母さんは買い物、お父さんも、少し様子が変わってた。時間ってのは、流れるんだな」
編集長「多くは語らず、手紙だけ託してきた。それでいいと思った」
クロコ「……編集長。今日は、いい一日の始め方をしましたね」
編集長「柄にもなく、しんみりさせるな」
クロコ「すみません。続けます。そのあとは?」
編集長「美容院で髪を切って案内を渡して、歯医者にも置いて、図書館は休館で、警察署では見事に塩対応された」
クロコ「情報量。テンポよく振り落とされましたね」
編集長「でもな、警察署で一個ひらめいた。掲示を無理に頼むんじゃなくて、署長宛てに手紙を出すんだ。『いまは出版社を立ち上げて、こういう活動をしています』って。返事は期待しない。歩き始めたことだけ、知ってもらう」
クロコ「押しつけない営業。編集長らしいです」
編集長「今日はな、営業ってものが、やっと分かった気がするんだ。名乗ること、だよ。デニーズで、俺はてっきり『いつもの客だから分かってもらえてる』と思ってた。でも店からすれば、『本日はどのようなご用件ですか』から始まる」
クロコ「常連の顔と、出版社の代表の顔は、別ってことですね。……ところで編集長、さっき『国道55号を走って前橋へ』ってメモしてましたけど」
編集長「ああ、走った」
クロコ「国道55号、高知です」
編集長「……は?」
クロコ「徳島から高知へ抜ける道です。前橋には、たぶん、着きません」
編集長「四国に営業に行った覚えはない」
クロコ「ですよね。番号は、あとで直しましょう」
クロコ「それより編集長。パソコン、開いたついでに」
編集長「ん」
クロコ「クラウドファンディングのページ、見てみません?」
編集長「……こわいな。初日だぞ。ゼロだったら、俺は今夜眠れない」
クロコ「開かないと、ゼロかどうかも分かりませんよ」
編集長「正論をやめろ」
編集長は、片目をつぶるようにして、ページを開いた。
通知が、一件。
編集長「……クロコ」
クロコ「はい」
編集長「一万円、入ってる」
クロコ「入ってますね」
編集長「一万円だぞ!? 誰かが、俺の本に、一万円!」
クロコ「達成率、2%です。初日で、ちゃんと動きました」
編集長「……見返しちゃった。三回見返した。画面、壊れてないよな?」
クロコ「壊れてません。コレクターの方が、本気で一歩、踏み込んでくれたんです」
編集長「フォローする。いま、フォローする」
クロコ「落ち着いて。指、震えてますよ」
朝は故人へ手紙を届け、昼は街を一軒ずつ歩き、夜には、思いがけない最初の応援が届いた。自分が歩いた日に、誰かが、こちらへ歩み寄ってくれた。
その時だった。スマホが鳴った。LINEだ。
中国の友人からだった。
「あなたのプロジェクト見たよ。どこにお金を入れるの?」
編集長「……クロコ、見たか、今の」
クロコ「見ました。『どこにお金を入れるの』。ど直球ですね」
編集長「これがな、面白いんだ。日本の知り合いには、たくさん案内した。でも、みんな、そっとしてる。触れない。『いいね』は押しても、お金の話は、しない」
クロコ「察して、遠慮して、静かに応援する。それも日本のやさしさではありますね」
編集長「分かってる。分かってるんだ。日本だと、金の話は、どこか下品みたいな空気があるだろ」
クロコ「ありますね。応援したくても、いくら払うかを口に出すのは、はしたない、という感覚」
編集長「でもこの子は、まっさきに『どこで払うの』って聞いてくる。俺の将来を、買う気なんだよ。買う気で、まっすぐ聞いてくる。それが、失礼じゃない。むしろ、本気なんだ」
クロコ「お金を出すことを、愛情表現の一つだと思っているのかもしれません」
編集長「そう。人間関係が、素直なんだ。そこに、なんだか、泣きそうになる」
クロコ「どちらが良い悪いじゃなくて、手の伸ばし方が違うんですね。日本の友人は隣で静かに立っていてくれて、この友人は、正面から手を掴みにくる」
編集長「うまいこと言うな、お前」
クロコ「たまには言います」
編集長「でもな、クロコ。問題がある」
クロコ「サイト、日本語ですね」
編集長「そうだ。しかもモーションギャラリーは、払う前に会員登録がいる。海外から、初めての子が、たどり着けるか?」
クロコ「たどり着けるようにしましょう。道を、描けばいい」
編集長「道?」
クロコ「フローチャートです。どのボタンを、どの順番で押すか。日本語のボタン表記と、中国語の意味を、並べて書く」
編集長「じいちゃんばあちゃんでも分かるやつな」
クロコ「はい。まず日本語版。それから、その友人のために、簡体字版。念のため、繁体字版も」
二人は、道を描き始めた。
「このプロジェクトを応援する」を押す。メールアドレスを入れる。届いたメールのリンクを開く。名前とパスワードを入れて、登録を完了する。リターンを選ぶ。クレジットカードを選ぶ。カード番号を入れて、確定する。
【画像挿入:日本語フローチャート】
【画像挿入:中国語(簡体字)フローチャート】
一枚の紙の上に、海の向こうの友人が、こちらへ渡ってくるための橋が、かかった。
編集長「……営業って、お願いするだけじゃ、ないんだな」
クロコ「近況を報告する営業がある。手を伸ばしてくれる人のために、道を一本、描いておく営業もある」
編集長「歩いて、名乗って、道を描く、か」
クロコ「今日の編集長、全部やりました。満点です」
編集長「膝は棒だけどな」
クロコ「そこはもう、あきらめてください」
窓の外で、雨が、静かに鳴っていた。
《上陸者》が、本当に世の中へ旅立った、忘れられない一日目の夜だった。
