3.11以降、「測定」がすべての根っこである理由 vol.3
vol. 10 2021-04-03 0
免許と車を入手して、6月頃から福島への往復をはじめ、同時進行で故・肥田舜太郎先生や国会で涙の熱弁をされた児玉龍彦先生、気鋭の学者として頭角を現していた開沼博さんらのインタビューを敢行、発表。状況に対する自分なりの見識と理解を、0から学びつつすすめていった。
知らなかった土地で、行けるところへ赴き、会える方にあって話を伺う中で、福島大学で「FGF」という動きがはじまっていることを知った。FGFは「福島大学原発災害支援フォーラム」の略称で、事故最前線で悩みながらも動き出した研究者たちの熱意は後に東大にも飛び火してTGF(東京大学原発災害支援フォーラム)の結成と、諸々の動きに繋がっていく。今回したい話は、そこから派生した週刊朝日グラビアでの連載「From F」、第2回についてだ。
当時、農業県なのに農学類のなかった福島大学で、経済学類に席を置く農業の専門家だった小山良太准教授(現・教授)の話に驚いた。
それは、「いくら言っても、誰も測ってくれない」と。これは土壌のことで、予想外に放射性物質の降った田畑がどのような状況にあるか、測定しないで対策も何もないだろうという文脈で「メディアも、ここまで来て話を聞きはするんだけど、記事にならない」とのことだった。
その頃自分はまだシーベルトとベクレルの違いもあやふやだし、放射能のまったく素人と言っていい立場だった。でも、メディアやSNSで山ほど語られている安全や危険について、最前線の食の専門家が「測ってない」と言っている。
自分なりにアンテナを立てて知ってるつもりになっていること。というか、そもそもの思考のすべて。それらの根本が揺らぐどころか、存在すらしてないという事実にあまり反応できず「それは、、大変ですね」としか言いようがなかった。
各所で批評家の類が、現場にも行かず「安全です」、「危険です」と言っている状況。予防原則は大前提として、具合が悪くなって倒れている人を一定の距離から見ている他人が「こうすべき」「ああすべき」と物知り顔で語っている笑えないコント。それを突如目の前にして、自分の非力さを痛感するとともに、社会の闇の深さを感じた経験だった。
これって、毎日感染者数だけが公表されて、そもそもの検査数、その選定根拠、検査方法、さらには改善策やその結果について、まともな共有がされないコロナ後の社会に既視感がすごくある。なんでここまで、思考停止を促されるんだろう。
The 10h FUKUSHIMA, Nippon AWAKES発起人 平井 有太