監督インタビュー【1】
vol. 22 2021-11-28 0
こんにちは。福岡県は晴れた日曜日です。
皆さんいかがお過ごしでしょうか?
クラウドファンディングも残すところ三日となりました。今日からの三日間は、昨年、上映実行委員会スタッフが行った、伊藤有紀監督のインタビューを掲載させていただきます。
くだけた雰囲気の中で行われたインタビューなので、お目汚しな点もあるかもしれませんが、構えていないがゆえに、伝わるものがあるインタビューになっているのではないか、と思います。
それでは、どうぞよろしくお願いいたします。
↓ ↓ ↓
写真:東京時代の伊藤監督(2005年)
ー いつ、東京から福岡に引っ越したのですか?
2009年の1月に福岡に来てるんだよね。2008年12月のギリギリまで東京で番組の仕事をやってて、納品して、年明け引っ越してきた。部屋だとかは自分で下見は全然していなくて、博多でお世話になる会社が決めてくれていた。社員寮のような位置付けで。東京から荷物だけ送って、着の身着のまま博多駅に降り立った。で、部屋で荷物を待って、みたいな。
ー 引っ越しを決めた経緯は?
当時ディレクターをやっていたスカパーの旅番組で、博多ロケをやって、その時に知り合った博多の会社の社長が、"番組が終わったらウチに来ん?"って。"ウチも映像の部署始めたばっかりやけん"と。福岡ローカルのテレビCMやね。いわゆるベンチャー企業。そこで、始めたばかりの映像の部署を見てやってほしい、と言われてさ。
ー へ〜。スカパーの番組をやっている途中に。
そう、2007年の暮れか2008年頭の、博多ロケの時にね。
ー スカパーの仕事は、どれくらいやっていたんですか?
自分がディレクターでやっていた旅番組は、約2年3ヶ月。その前は、撮影とかADで、別の番組にずっと付いてて。確か2006年の9月から自分がディレクターの旅番組をやらせてもらった。それが2008年12月まで続いたんだけど、47都道府県をロケして回って、現場では運転・ディレクション・撮影をして、帰ってきたら編集して、都内のスタジオでナレーターさんにキュー出ししたり演出したりミキサーさんと整音したり、のスタジオワークもやって。で、局に納品してという…なんかこう、番組づくりというか、映像の基本を一通り経験させてもらったという感じ。
ー 福岡に引っ越そうと決めたのは、いつ?
だから、2007年暮れか2008年頭の博多ロケの時に、博多の会社の社長さんに言われたことを俺が覚えていて、2008年の夏頃に、こちらからその社長さんに電話したんだよね。"あの話ってまだ生きてますか?"と。
スカパーの、僕がやらせてもらっていた局って、番組の人気投票で順位が出るんよ。加入者が当時10万人くらいの、そんなにメジャーな局ではなかったんだけど、そういう試みが定期的にあって。で、僕が担当していた番組は、およそ30番組中、8位とか9位なんよ、いつも。悪くはないけどめちゃくちゃ良くもない、でも打ち切りにはならず番組継続、みたいな、いつもちょうどいい位置にその番組はランクインしていて。
2年くらい、ロケで日本全国を同じメンバーでまわるとさ、一つのチームみたいになるんよ。出演者とか、ADの子とか。で、出演者の人たちがけっこう、ワガママというか、本音をズバズバ言う人たちでね。俺はロケでずっと一緒にまわってるから、出演者の人間性を概ね理解してたし、チームワークみたいなものができていたんだけど、制作会社からしたら、けっこうワガママで扱いづらいと思われていたらしい人たちだったんだよね。
だから、2008年の夏頃に、「番組は来年以降も継続が決まりました。ただ、心機一転、演者だけ変えて、2009年からも日本一周を伊藤君にまたやってほしい」と言われた。「伊藤君のギャラは上げるよ」とも。だから、もうちょっといい暮らしもできてたのかもしれないけど…でも、ピンと来なかったんだよね。演者が変わったって、予算規模は同じだし、やることはほとんど変わらない。なんか違うな〜と思った。
2008年夏の段階で、47都道府県の7〜8割をもうロケでまわってるんだよね。そのロケも、一つの県に一泊二日とか、せいぜい二泊とか。言葉悪いかもしれないけど、"つまみ食い" みたいなロケ。いろんな県をつまみ食いする、テレビっぽいロケ。演者変えてもう一周ギャラ上げるよって言われても…テレビマンの人とか、テレビの道でやっていこうって人はそれでも良かったんだろうけど、自分の核の部分は『映画』だという想いが、やっぱりあったんだろうね。そこで立ち止まっちゃった。
ー ふ〜ん。
あと、いろんな地方をまわっていく中で、東京でがんばっていくということの意味…それまでは、何も考えずにそんなもんだ、それが当然なんだと思っていたんだけど、そこでも立ち止まっちゃったんだよね。
自分の核は『映画』なんじゃないかってことで立ち止まったというのと、いわゆる"地方"と呼ばれる日本各地の県を、つまみ食い程度とはいえまわらせてもらったことで視野が広がり「東京って別に絶対じゃないんじゃないか」って想いが湧いてきて立ち止まったという、二点ですね。ざっくり言うと。
ー 「東京って別に絶対じゃないんじゃないか」って想いが湧いてきて立ち止まった…というのを、もう少し説明してもらえますか?
つまみ食い程度だけどいろんなところを見たことで、実家の三重県も地方の一つならば、東京も、今の時代には首都って決められているけど元々は地方の一つ。それが不自然なぐらいに巨大に発展しただけ。…というのが、旅ロケをすることでなんとなく見えてきたんだろうね。
旅番組やってる時は、実家の人たちのことを思い出すようになっていった。ロケのたびに、ばあちゃんとか、実家の人たちに旅先でお土産を買って、帰省した際に渡したりするようになっていった。それって、東京ガッツリの頃には考えられなかったこと。
とはいえ、その時点ではまだぜんぜん深くは考えていなくて。地方についてとか、自分の根っこは三重県桑名市多度町なんだ、とか、掘り下げて考えるようになったのは、やっぱり2012年に福岡の八女市の町家に移住してからだよね。八女の人たちとか、営みに触れてから。八女にたどり着くまでの紆余曲折、八女に住んでからの色々は、またの機会に話します。
写真:福岡県八女市中心部の町並み
【2020年6月24日 収録】
2021/11/28
映画『おれらの多度祭』上映実行委員会