吾妻忍者の割田下総守重勝について
vol. 22 2022-07-08 0
吉川英治の短編小説「乱波者」の主人公
――乱破者の眼には山ほどの都合の好い走り場所はなかった。樹木がある、岩陰がある、谷間がある。自身を人間と思わずにさえ行動すれば、人間の手に捕まるような事はなかった――
吉川英治の短編小説「乱破者」(続編「盗心畑」)の一節である。これは昭和7年、週刊朝日に連載された割田下総守重勝を主人公にした小説である。タイトルの「乱破者」とは諜報活動に長けたいわゆる忍者のことをいう(須破又は透破とも)。
「金の草鞋」第4巻の表紙、十返舎一九の「諸国道中金の草鞋」の挿絵に色を付けたもの
この小説は続編となる「盗心畑」も含め、中之条町の鍋屋旅館によって発行された「金の草鞋」第4巻(昭和37年)に収録された。冒頭の文章は、北条方が陣取る大戸城へ忍び込む割田の様子が書かれた部分である。短編小説「乱波者」は、のちに『吉川英治全集』48巻(昭和58年、講談社)に収録されているので、興味のある方はぜひご一読いただきたい。いつか映画化されたらいいのに・・・と夢見ている!
鍋屋旅館発行「金の草鞋」第4巻から一部抜粋したもの
割田重勝の活躍
割田重勝は、吾妻七騎の一人に名を連ねる勇猛な郷士で、忍びの名人といわれている。出自については、天正5年信州常田郷より吾妻郡横尾村に来た矢沢家の子孫と伝わる。
真田氏の配下で、天正初年から天正18年の松井田城攻めまで戦場において活躍している。『上野国吾妻記』によると、中山城へ忍び入り馬を奪って敵を翻弄したり、白井の原(渋川市白井)で敵将の名馬を奪い、「我は真田安房守(昌幸)の臣割田下総守重勝、本州吾妻の者なり」と言ってその場を去り、主君昌幸にその馬と金覆輪の鞍を献上したと伝わる。コソコソと盗みを働くのではなく、堂々と名乗るところがさすがは勇敢な武将であり、吾妻七騎に数えられるだけのことはある。
割田重勝最期の場面
戦場での働きを生きがいとしている割田は、平和な時代に適応できず、帰農するもうまくいかず、あちこちで盗みなどを働くなどして、吾妻郡奉行出浦対馬守の命によって討ち取られたという。
割田終焉の地と伝わる「大石」
中之条町大字横尾には、割田が討ち取られた場所といわれる「大石」が今も残る。この「大石」の前で、大勢の追っ手に囲まれた割田は、鹿野又兵衛の一撃によって倒れこんだ。しかし割田はかつての忍者。武術の腕はいまだ衰えてはいなかったようだ。斬りつけられてうつ伏せになりながらも、近づく鹿野和泉守(清見寺開基)のすねを斬りつけた。斬りつけられた鹿野和泉守は痛みに耐えながらも、ついに割田の首を捕ったということである。
かつての主君真田信之公は、勇猛な郷士割田の死を憐れみ、涙を流されたと伝えられている。
中之条町大字横尾にある割田下総守重勝の墓所(撮影 金子敦子)
名刀桃木たおし
じつは割田の父もまた忍びの名人で、川中島の合戦で敵将上杉謙信秘蔵の刀を盗み取ったと伝わる。「伝光丸」と呼ばれる名刀がそれであり、その子割田重勝は父から譲り受けたその名刀で、前述の「大石」において鹿野和泉守を斬りつけたのである。名刀「伝光丸」であったから、鹿野和泉守の傷口から膿が全身に広がり、やがて鹿野和泉守は死去してしまったのだという・・・(そして葬儀の際にカシャ出現となる)。
さてその「伝光丸」は、割田の死去後、真田信之公が秘蔵にされたといい、次のようなエピソードが伝わる。
ある時屋敷に忍び込んだ盗人が桃の木の陰に隠れたという。そこで信之公は、その盗人を斬りつけようと、なんと桃の木もろとも断ち切ったというのだ。二尺あまりもある桃の木にもかかわらず、「スパッ!」と斬れてしまうというから相当な威力。切れ味抜群だったに違いない!
さいごに
割田の最期については『上野国吾妻記』による。戦国の世を生き延びた豪傑割田は、もしかしたら本当は盗みなんか働いていないかもしれない。人情味あふれる優しい人物だったかもしれない。しかし今となっては知る由もない。
神田松鯉先生の講談「清見寺に伝わる妖怪カシャ退治伝説」において、その割田がどのように語られるのか、皆さまぜひご注目ください!
ただし、7月24日の講談はおかげさまで満員御礼!入場できない方のために、そのお話は後日、このアップデート記事にて少しだけ紹介させていただきます!
ではまた、次回をお楽しみに!