『左様なら』について(監督:石橋夕帆より)
vol. 21 2018-06-23 0
「さようなら」という言葉は「左様ならば仕方ない」という語源から来ているそうです。
私も詳しく知っているわけではないのですが、《そういう事なら、これでお別れしましょう》という別れを惜しむ言葉のようで、映画『左様なら』の企画が立ち上がった際にこの語源を知り、この作品がより染み込んでくるようでした。
当初は原作に忠実な短編作品での映像化を考えていました。が、去年のMOOSIC LABで岩切一空監督の『聖なるもの』を観た時に、何というか打ちのめされました。色々な感情は湧き上がったのですが、私も長編作品で戦いたいと強く思いました。(その日本当は短編部門でのエントリーの相談の為に企画書と短編版の脚本を脇に抱えていました。笑)
そのような経緯で『左様なら』を長編映画として構想する事となりましたが、18ページの原作を長編作品にするという事は、原作に描かれていない部分が多く発生するという事です。『左様なら』が纏っている空気を映画でどう表現するか、そして長編映画としてのこの作品が伝えられるものは何か。私なりに考え、作中で綾が亡くなった後の教室の空気を丸ごと描こうと思いました。原作では綾の死を悲しんでいる風だったクラスメイト達が(綾の死について)別の噂が飛び交うと手のひらを返したようにゴシップネタとして騒ぎ立てる様子が描かれています。そんな中で主人公の由紀は不思議なくらい静かです。それこそ少し怖いほどに。
例えば著名な方が亡くなった時、SNSでおびただしい数の悲しみの声が上がっても何分も経たない内に全然関係のない事柄を発信できるし、何日も経たない内に世間の関心は別の話題に移り変わっていきます。別にそれ自体が悪いという事ではなくて、そういうものだと思います。ですがそれがSNSやメディアの中だけでなく現実の中で起こってしまったらと考えると、少しゾッとします。そしてその目まぐるしさが学校に漂うあの空気と混ざった時に、一体何が起こるのか。そんな連想から物語を構築していきました。
大学生の時、東洋人の死生観という授業で先生が「人は一度だけ死にます」と言いました。死後どうなるのか実体験として知る人間はほとんどいないと。当たり前の事のようですが、本当にそうだなと思いました。死は誰のものなのでしょう。私は誰かが亡くなった時、その人の死をどれくらい悼んでいるだろうと考えふと我に返ってしまう瞬間があります。人の死を自分のドラマにしてはいないだろうかと。ですがそれすらも通り過ぎ、穏やかな日々が流れて、そんな中ただその人がここにいない事が寂しく感じたりする瞬間に「そうか、もういないのか」と実感します。
「さようなら」という言葉は「もう二度と会えないかもしれない」という気持ち、ある意味「死」に結びつく言葉でもあるかもしれないと、ある記事で読みました。
いなくなってしまった人をずっと想い続ける事は難しくて、日々は流れ、いつか手を離さなくてはなりません。手を振り、お別れする時までどうか誰かと寄り添い生きられるようにと願っています。
つらつらとまとまりのない文章で恐縮ですが、ほんの少しでもこの作品に込めた想いが伝わりましたら幸いです。映画『左様なら』クラウドファンディング残り1週間です。応援のほど何卒よろしくお願い致します。
監督・石橋 夕帆
映画『左様なら』プロジェクトページ:https://motion-gallery.net/projects/sayounara
映画『左様なら』プロモーション第一弾:https://youtu.be/kirNgPShxsE
映画『左様なら』プロモーション第二段:https://youtu.be/mewu4qV9nrA
映画『左様なら』プロモーション第三段:https://youtu.be/PshffpFGDUo
Twitter:@sayounara_film/Instagram:@sayounara_film