意味のない〈身体を伴ったコミュニケーション〉
vol. 3 2021-05-11 0
こんにちは。ぺぺぺの会で作・演出をしています、宮澤大和です。
『No. 1 Pure Pedigree』の上演中止を決定してから2週間が経とうとしています。
緊急事態宣言は期間延長されましたが、舞台芸術に対する制限は緩和されて鑑賞者をフィジカルにお招きすることが条件つきで可能になったようです。
今回、公演中止の判断を下さなければならなかったことには、〈思うところ〉が多くあります。今日はそんな〈思うところ〉を婉曲的に、脱線的に、僕の書き方で書いてみました。おつきあいいただけますとさいわいです。
『No. 1 Pure Pedigree』の公演中止が決定してから火消しをするように日々を過ごしている。
「火」というのはたんなる比喩に過ぎない。僕はこの感染症禍を通して演劇をおこなうことはある種祭をおこなうことなのだとつよく考えるようになった。無論、演劇の起源が祭祀によることは以前からよく知っていた。でもそれらはたんに知識の上での結びつきであって、感染症禍を経験するまで、その結びつきに実感は伴われていませんでした。
新型コロナウイルスは多くの人々の命を奪うだけでなく、私たち人類が長い時間をかけて形成してきた価値と価値観を解体している。そのことに気づいている人もいれば依然気づかない人もいる。気づかない振りを必死に決めこむ人もいるし、気づいた上で利用してやろうとほくそ笑む奴もいる。
解体された価値と価値観のいち例を挙げてみる。いち番に出てくるのは〈身体を伴ったコミュニケーション〉。日本人はこれを愛憎している。かつてエコノミック・アニマルと呼ばれた私たちは経済的利潤の追求を第一義としながらも、アジェンダの明確でない会議を継承した(あるいは企業形態が大規模になったことで「無駄な会議」が創出されていったのかもしれない。門外漢の僕はこの辺で口を閉じることにする)。どちらにせよ、私たちはエコノミックでありながら非合理[irrationalism]の側面をもあわせもっていた。しかしWindows95、アップルから革新的な製品(iPhone)が海を渡ってやって来ると少しずつ状況が変わりはじめる。
テクノロジーを駆使して無駄や手間を省こうとすることが主流になったし、事実無駄や手間が省かれた効率的な集団が資本主義の内側で成功を収めた。しかしながら日本人がそういう潮流にうまく乗りあわせることができなかったのは、かれらがエコノミックでありながら非合理でありつづけたから──つまり日本人は自覚と無自覚とに関わらず〈身体を伴ったコミュニケーション〉の重要性を感染症禍以前から認めていたのでしょう。意味のない飲み会、意味のない会議、意味のない通勤……〈意味のない〉ことと〈無意味〉は同義ではない。〈無意味〉とはゼロの状態のことです。意味を数値にして計測することができるとしたら秤の針はゼロの値を指して動かない。一方、〈意味のない〉ことは〈意味のある〉ことの対称にあります。つまり〈意味のない〉状態は〈意味のある〉状態なくして存在し得ない。そのように考えると、〈意味のない〉にはじつは意味が内在していることがわかります。
不要不急。僕は演劇をつくっているけど、演劇が不要不急であるとかないとかそういう身も蓋もない、下劣な議論に加わる気は毛頭ない。演劇は、芸術は、ある人にとってはずっと不要不急であり、またある人にとってはずっと不要不急ではなかったはずでしょう。
「これが不要不急で、あれが不要不急でない」とか何も満場一致で決定しなくてよいのです。先ほど意味の話をしましたが、あのロジックを援用すれば「新しい生活様式」が存在するのは「旧い生活様式」が存在するからであり、「新しい生活様式」にはじつは「旧い生活様式」が内在していることがわかります。
あらゆるところで言い古された言葉ではあるけれど、答えはかならずひとつではありません。「新しい生活様式」に答えがあるのではなく、「新しい生活様式」をつくっていくのはこれからを生きる私たち一人ひとりである。日本人はこのまま〈身体を伴ったコミュニケーション〉を棄てるべきではない。必死にすがり、しがみついてしゃぶりついたままでよいのです。ある問題に対して多層的な答えを示さなくてはならないとき、チャットで情報のやりとりをおこなうだけでは、こころもとない。
〈意味のない〉時間を愛して生きよ。でなければ意味ある時間も愛されない。