「祈り」という言葉に抵抗がありますか? 地に足のついたスピリチュアル
vol. 11 2025-10-24 0
主催Lataより
正直なところを書くと
私は最近、祈りやセレモニーという言葉が
嫌いになっていました。
「祈る」「セレモニーをする」
といいながら、
平気で環境に悪い暮らしをする人
自堕落な暮らしをする人
そう言う人を見る度にうんざりして
「祈りなんて言葉がなければ
地球のための行動を選択する人が増えるのではないか?」
と思っていました。
私はヨガの修業から
自己実現の道に入っているので
日本のスピ界というマーケットを知らずに
今まで来てしまいました。
最近、スピ界というものに関わっている人を通して私が見たのは
なんの行も行動もせず
自分の意識状態に働きかけないままに
「ありのまま」「セルフラブ」
という耳障りの良い言葉で
感情を曖昧に分類し
自分をポジティブという狭い枠にはめて
本当は葛藤があるのに見ぬふりをして
本当の自分を発揮できないままに自己肯定し
結果、地球と自分を切り離した感覚のまま
「おいしい」「たのしい」という
資本主義の中の快の感覚を集めて
幸福感を維持するという現象でした。
これはその人が悪いのではなく
叡智をマーケットに乗せるときに
販売し続けられるように
デザインされた結果だと思います。
純粋な人ほど
罠に引っかかりやすいのだと。
「シリウス」「レムリア」「アトランティス」
「女神」「祈り」「舞」
地球や精神の領域のための具体的な行動なく
エゴを満たすための物語の中
行動しない逃げ道になっている。
自己承認欲を満たすための
ツールになっている。
だから私は祈りという言葉を使わず
畑仕事やセルフビルド
コミュニティづくりなど
環境活動を中心に、行動で祈ってきました。
私にもそれなりにシリウスの記憶とか
宇宙人の時の記憶とか
古代文明の記憶とかはあります。
だからそれが幻想と言っているのではない。
「滅亡したんだから、そのやり方になんか問題あったのでは?」
「今が神話の最先端の世界では?」
「今、この文明が滅びる前に、
一人ひとりがどう行動する?どう生きる?」
と、私はシンプルに思っています。
「300人の祈りの舞台」という
見る人からみたらスピっぽすぎるタイトルには
「これでいいのかい?!」
と、正直、恥ずかしさもありました。
真っ当なひとに届きにくくなるかも!
とか冷静な考えもありました。
だけど、
「祈りって行動でしょ!というところを
社会に投げかけるために
舞台の雛形を創り、提示するのだ!」
と、思考を超えて、直感を信じて
このタイトルにしました!
そういうのに対する
違和感がある人にほど届けたい。
私は多分、そんなあなたの仲間です。
舞台の制作に追われて、畑仕事に出れていなく
家の手入れもできていなくて
そのことで自分を責めているけど
そんな行動を選択し続ける自分でありたいと
葛藤する、自己実現の旅を行く
宇宙と自己の統合の道を行く仲間です。

今日は「祈り」という言葉に
抵抗を感じる
真っ当な方々に向けて書きました。
手を合わせてナムナムしていないあなたが
誰よりも祈りの行動に生きていること
私はそういう人を本氣で尊敬しています。
私自身は「芸能」なんて
人の役に立たないことしかやれない自分に
まだ葛藤する部分があります。
大工とか助産師とか、農家とか、
もっと生活に役に立つ役割だったらよかったと。
でも、私はこの村で
舞手として受け入れてもらった時に認めたのです。
私の役割は芸能なんだと。
それで地球のお役に立っていくんだと。
誰に何と言われようと、そうなれるように
自分自身にエネルギーを注ぎ続けるんだと。
この2年は離婚や、シングルマザー突入、
拠点の再建などで、
一人では全ての仕事をやりきれず
畑を途中で断念してしまい、
セレモニーしかやれませんでした。
そんな時期のセレモニーは
おままごとの域だなと我ながら感じます。
触れられる領域が全然変わるなと。
来年こそは、仲間を集めて
畑仕事に精を出したいと思います。
そこにはスピリチュアルな領域の
学びと練習があるからです。
日本の危機を乗り切るために。
ちゃんと生きる!
今必要なのはこれしかないと思っています。
300人の祈りの舞台
クラファンは今月で終了です。
観に来れない方のために
公演録画のリターンもご用意しています
どうぞご一読ください
