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ドキュメンタリー映画「山人」の制作・配給をクラウドファンディングで実現!
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ドキュメンタリー映画監督です。人間の命を根底から支えているのが食べ物だとの想いから、農業をライフワークに長編映画やテレビ番組を多数、製作していました。今は山里の暮らしの魅力を伝えたいと山奥の山村に通い続けています。
山里には縄文時代から受け継がれてきた自然と共存する知恵が今も残っている。それを福島県の山奥に暮らす山人、菅家藤一さんの山の恵みに生かされた日々から明らかにしていく。そこに持続可能な未来に向けての大切なメッセージがあった。
ドキュメンタリー映画監督の原村政樹と申します。長年、農業をライフワークに映画を制作してまいりました。農業は人間の命を根底から支える食べ物を生み出しています、その大切さを伝えたいと、一貫して農業にこだわっています。農村の撮影をスタートしたのが1986年、すでに40年前のことでした。20年かけて完成させた「いのち耕す人々」、放射能汚染ゼロを目指した「天に栄える村」、農民詩人・木村廸夫さんの生涯を描いた「無音の叫び声」、世界農業遺産認定の「武蔵野~江戸の循環農業が息づく」、「食の安全を守る人々」、「タネは誰のもの」、「お百姓さんになりたい」、「若者は山里をめざす」、「山里は持続可能な世界だった」、その他、14作品の長編ドキュメンタリー映画を制作しました。今回の「山人」は私の15本目の作品です。これらすべての作品の底流に流れているのは、人間はヤマ(自然)に生かされている、という考え方です。今回の「山人」は人と自然との関わりを福島県の山奥の村に暮らす菅家藤一さんの、山の動植物との関りを描きました。
主人公の菅家藤一さんは「山の恵みに生かされているのが人間だ」と言います。そん考えがどこから来るのか知りたいと、2022年から足掛け4年間、菅家藤一さんの狩猟採集に同行し、映像記録しました。その一部を前作「山里は持続可能な世界だった」のラストシーンで紹介しました。しかし、それは菅家さんのほんの一部でしかなく、伝えたいことは他にも沢山あり、撮影を継続して今回の映画を制作することにしたのです。それは驚きの連続でした。
山里に暮らす人達は山の恵に生かされつつも決して山の恵みを採りつくさない、と言います。その生き方の根底に潜むことに驚いたのです。それは単純に山の恵みを必要以上に採らない(獲らない)というだけでなく、山の動植物の生理・生態について豊富な知識があることでした。それはまるで生態学者であるかのように思えました。その知恵を菅家さんは両親や祖父母から受け継いできたのです。菅家さんは山ブドウの樹皮で籠などの編み組細工(生活雑貨)を作ります。その製法は縄文時代の作り方と変わらないと言われています。
ある時、「山ブドウに神を感じる」と菅家さんがつぶやきました。このつぶやきこそ、私が最も大切な感性、万物の霊長だと人間中心の考え方とは正反対の思想です。これこそ私が映画で最も伝えたかったことなのです。
山ブドウの樹皮で籠を作る
もう20年ほど前の年末、只見線で奥会津を訪ね、菅家さんが暮らす三島町で宿泊しました。その折、近くの共同浴場で地元のおじいさんたちと会話が弾み、何故か惹かれ、こんな人たちが暮らす村の映画が出来たらいいなあ、と思いました。すぐに宿で販売していた「谿声山色(けいせいさんしょく) ~ 奥会津に見る正法眼蔵の世界」を購入、そこに掲載された白黒写真の数々にますます引き込まれました。しかし中々実行には移せず10年ほど時が過ぎ、再び奥会津を旅した折、「奥会津学Vol4 特集・山に生きる」に掲載されていた菅家藤一さんの記事を読み、菅家さんの言葉ひとつひとつが心に響きました。それは将に私が最も描きたかったことだからです。
出版元:奥会津書房
それから3年、菅家さんを自宅に訪ね、お話しをお聞きしました。想像通り、魅力的な方でした。ただ、当時は山里で生きる決心をした若者たちの映画を考えていたので、すぐにはとりかからず、時期が来るのを待つことにして、「若者は山里をめざす」、「山里は持続可能な世界だった」を完成させ、ようやく制作に取り掛かったのです。
菅家さんが暮らす福島県大沼郡三島町間方
春はゼンマイ、ワラビ、ウド、ミズナ、ウルイ、コゴミ、アサツキなど、多彩な山菜が芽吹きます。採取する場所は集落近くの道沿いから急峻な山奥まで、広範囲に亘ります。それぞれの山菜によって採り方も違います。そうすることで毎年、途絶えることなく良い山菜が採れるるのです。
山菜採取の菅家さん
「コゴミは一株に7本から10本の葉が生えているが、同じ株でも成長はバラバラで、長い葉もあれば根元に生長し始めたばかりの小さい葉もある。早く生長した葉を鹿などの野生動物が食べたとしても、根元に隠れて見えない葉があるから、その後に育って生き延び、来年も芽吹く。だから人間も全部は採らないで、小さい葉を残しておくことが大切だ」と菅家さん・・・。
根元に隠れている芽生えたばかりの葉
標高の高い場所に自生するゼンマイは霜の冷たさにも耐えられるように綿毛で覆われていました。「カモシカも不思議と全部は食べずに残していく。すべてを採ってしまうと根に栄養分が届かず、次の年は貧弱なものしか生えないから、必ず1,2本残して採取することが大切だ。50年間同じ場所で採っているが、一度もなくなったことはない」と、菅家さん・・・。
綿毛に覆われたゼンマイ
6月、2ヵ月に及ぶ山ブドウの採取がはじまります。山ブドウの樹皮を使った籠などの編み組細工(生活雑貨)を作るのです。
冬の極寒の地に育つ山ブドウは寒さを凌いで生き延びるために、3層の樹皮で覆われています。同じ場所に育ったものでも生長の度合いは様々です。「一本が剥がせるからといって、すべてをとれば無駄になる。剥けないものは来年まで残しておく」と、菅家さん・・・。編み組細工の素材となる樹皮を剥ぐ
「山ブドウは自力では生長できず、実生の木が芽生えるまで何年でも待ち続ける」と聞いた時、私は思わず「人間のように植物にも意志があるようですね」と言ってしまいました。
地上で待ち続ける山ブドウ
木と共に生長する山ブドウ
樹皮が剥がれるか確かめる
剝がれない時は落葉で覆って2週間待つ
菅家さんの工房
山での採取が終ると、3か月間かかる裁断の作業に明け暮れます。樹皮を5ミリの太さに均一に裁断する熟練の技です。「良い製品を作るためにこれが一番大切な作業だ」と、菅家さん・・・5ミリの幅に裁断する
目にもとまらぬ速さで、随所にある節を避けて裁断する手さばきは熟練の職人技。避けずに裁断するとその部分が剥がれて、使い物にならなくなってしまいます。
山での採取、裁断、そして編組みとすべてを手作業で行います。縄文時代の作り方と同じです。「作っているときは何も考えない、ただ、手元を見ているだけだ」と菅家さん・・・
山ブドウの樹皮で作った籠
デザインにも工夫を凝らしている
菅家さんは自宅近くに自生するマタタビでの編み組細工もしています。
マタタビの笊
菅家さんは50年以上、山での狩りを行ってきました。そんな菅家さんが今、心を痛めています。熊が人里に出没するようになり、殺処分される熊が増えているからです。昔は熊を食べるための熊狩りでしたが、今は廃棄されてしまいます。「狩猟は文化だ」という菅家さんは、危険な熊を駆除することには反対ではありませんが、足跡だけを見ただけでの駆除の要請など、無分別な要請は断っています。長年行ってきた山奥での狩りは「熊が絶滅するかもしれない」と、止めてしまいました。
熊が人里に出没するようになったのは、木の実などの野生動物の食べ物が無くなったことが大きな原因だと、荒廃する山の現状を案内してくれました。ナラ枯れ(木の葉が枯れている)
カシノナガキクイムシ侵入の跡
カモシカやクマが樹液を舐めた跡
幹の周囲全体の食害で木は枯れる
毎年、菅家さんたち猟師は村の寺で鳥獣供養を行います。鳥や獣にも霊魂があると、供養するのです。
狩猟解禁後、まずは山鳥を撃ちにいきます。山鳥の肉を煮込だ鍋汁はとても美味しく、山里に暮らす人達への自然の贈り物です。しかし、菅家さんは撃つことをためらいました。「メンタ」と呼ぶ雌鶏は、絶滅を防ぐために殺してはならないからです。
縄文時代から連綿として受け継がれてきた奥会津の編み組細工。その伝統を途絶えさせたくないと菅家さんは今まで多くの弟子を育ててきました。現在、編組み職人を目指して三島町に移住した二人の若者を育てています。すで5年前に移住したに二人は自作の製品を販売できるまになりました。
福島県内から移住した三澤龍太さん
静岡県から移住した三井康二さん
山に生まれ山に生きた菅家さんは、撮影の折に触れて、様々なメッセージをカメラに向かって伝えてくれました。
― 山の資源は適切な時期に使わなければ意味がない。使うことによって新たな命が芽生えてくる。使わなければ山が荒れる。
― 風雪に耐えて育った山ブドウを真心を込めて籠などを作る。それがモノ作りをする人の心構えだ。
― 山の恵みに対して、ありがとうという感謝の心が大切だ。
― 山の恵に生かされているのが人間じゃないかな、と思うのが俺の考え方だ。
― 山に生まれて山に育って何も後悔はないし、楽しい人生を送っている。
などなど・・・・
本プロジェクトは実行確約型のため、目標金額に満たなかった場合でも、自費で補填するなどして、必ず作品を完成させ、配給準備を行います。未達の場合もリターンをお届けしますのでご安心ください。 なお、なるべく多くの劇場で上映できるよう活動してまいりますが、現時点でお住いの地域で上映される確約は出来かねますこと、ご了承くださいませ。また、映画館上映だけでなく、文化ホールなどで自主上映も出来るように推進して参ります。
毎回の撮影で菅家藤一さんが語る言葉はとても深く心に響きました。その感動を伝えるためにインタビューは編集で切り刻まず、さらに同じ内容であっても幾つかのシーンで繰り返し紹介することにしました。さらに説明的な解説は最小限に留め、シンプルな作品に仕上げました。こうした制作方針は私の映画では初めての試みです。
2022年5が月から撮影をスタートし、今年1月まで足掛け4年の撮影となりました。現在、ほぼ完成形に至っています。これからスタジオで完成品を作るまで、最後まで推敲して、作品の質を高めて参ります。
スタジオでの最終仕上げと完成後の配給スケジュールは下記の通りです。
2025年6月 スタジオ作業(映像・音声の補正など)
2025年6月~8月 配給準備(上映素材・予告編・チラシ・ポスターHP作成)
2025年9月~ 上映開始(予定)
上映時間:約80分
必要とされる経費は300万円、その内100万円は自己資金で賄い、残りの200万円をクラウドファンディングでの募集です。両者を合わせた使い道は下記の通りです。
1)スタジオ経費:100万円(色補正・テロップ追加、整音、MA)
2)上映用素材作成費:50万円(DCP、ブルーレイ、DVD 予告編作成)
3)上映配給経費:100万円(チラシ・ポスター作製費<デザイン、印刷>50万円、HP作成費20万円、配給活動費30万円)
4)モションギャラリー手数料:20万円
5)リターン経費:30万円
合計300万円(内100万円は自己資金)
2006年 「いのち耕す人々」 これは1986年から20年かけて完成させた作品で、山形県高畠町の有機農業の軌跡を描いたものです。(キネマ旬報文化映画ベスト・テン第4位)
2009年 NHK・ETV特集「よみがえれ里山のコメ作り」 耕作放棄田の再生に賭ける福島県と新潟県の農家を描いたものです。
2010年 テレビ東京・カンブリア宮殿「日本一のコメ作り」 コメのコンクールで5年連続、金賞を受賞した有機農家・遠藤五一さんのコメ作りを苗作りから収穫までの1年を丹念に追った番組です。
2011年 NHK・ETV特集「原発事故に立ち向かうコメ農家」 福島県で放射能汚染ゼロを目指す農家集団と東電と闘う農家を追ったものです。(農業ジャーナリスト賞受賞)
2012年 「天に栄える村」 福島県天栄村で原発事故を乗り越えようと動く農家集団と彼らを応援する市民の姿を描いたもので、原発事故以前の2009年から4年間かけて完成させました。(キネマ旬報文化映画ベスト・テン第5位受賞)
2014年 NHK・戦後史証言プロジェクト「日本一のコメ作りを目指して」 稲作を主軸に日本の農業の歩みを敗戦から現代まで伝えた番組です。
2016年 「無音の叫び声」 日本を代表する農民詩人、木村廸夫さんの詩から、戦前から現在までの村の歴史を描いた作品です。木村さんの詩のテーマの一つに<山(自然)があるから人間は生きていける>という村の伝統的な価値観があり、そのことに迫りたいという思いが、次の作品に繋がりました。( 書籍「無音の叫び声 農民詩人・木村迪夫は語る」 と農業ジャーナリスト賞W受賞)
2018年 「武蔵野 江戸の循環農業が息づく」 私が暮らす地域の農村を舞台に、江戸時代から続く落葉堆肥農法を伝えました。平地の雑木林を舞台にしたもので、次回作は、山奥の村を描きたいと今回の映画の引き金になりました。(キネマ旬報文化映画ベスト・テン第6位・農業ジャーナリスト賞)
2019年 「お百姓さんになりたい」 これも私が暮らす川越市に隣接する三芳町で、自然栽培農法を実践している明石農園の日々を描きました。農業を通じて地域で人々が共生する姿を伝えた作品です。
2020年 「タネは誰のもの」 種子法廃止、種苗法改定の動きの背景にあるグローバル化の問題に迫りました。(キネマ旬報文化映画ベスト・テン第7位 / 日本復興奨励賞受賞)
2021年 「食の安全を守る人々」 日本と韓国、アメリカに取材して、世界的に危険が認知されている除草剤や子どもたちの発達障害を引き起こす殺虫剤、そして流通が始まったゲノム編集食品の危険性に迫り、子どもたちが健康で健やかに育って欲しいとの願いを込めて 、 給食のオーガニック化の大切さを訴えました。
2022年「若者は山里をめざす」 3人の若者が村の人たちと力を合わせて、村の大切な伝統文化を未来へ繋げようとする姿を3年間、密着しました。3人の若者たちは村人と共に活動をする中で、山里の暮らしから大切なものを見つけていきました。(農業ジャーナリスト賞)
2024年「山里は持続可能な世界だった」 今回の映画を制作するきっかけとなった作品です。昭和30年代以前の山里の暮らしを、当時を記録した白黒写真とその時代を生きた人たちの証言、そして今も当時の生業を継承している職人たちを通じて、当時、どのように持続可能な暮らしを実現していたのかを伝えました。
「温故知新」……使い古された言葉かも知れないが、今ほど身近に感じた時代はないのではないか。ロシアのウクライナ侵略戦争の終わりが見えないなかで、貧富の格差がすすむなかで、食料を含め様々な日用品が高騰を続けるなかで。
いかに近代化が進み、デジタル化がすすんでも、ヒトとしての日々の平穏な暮らしのなかに幸せを求めることに変わりない。国や都市が暴走しても、山里がある限り暮らしの再生は可能だ。山里の暮らしには、自然の恵みとそれを生かすヒトの営みに支えられた循環の世界が今も息づいている。そのことの現代的意義と大切さを、原村監督が静かに語りかけてくる。
原村監督の本作品製作と上映活動のご支援をよろしくお願い申し上げます。
鈴木敏夫(企画プロデューサー/農文協顧問):映画『武蔵野』『若者は山里をめざす』のプロデューサー。一貫して原村政樹監督の映画製作と上映活動を支援してきた。農文協のグループ会社で、雑誌・書籍などの企画編集製作を手がける株式会社農文協プロダクションの元代表取締役。現農文協顧問。長年にわたり農文協編集部で全国の農業農村の移り変わりを見守ってきた。農的暮らしを提案する生活雑誌「季刊・うかたま」の初代編集長。川越市在住。
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