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ドキュメンタリー映画『未来をなぞる』をクラウドファンディングで実現!
2011年の東日本大震災後から、故郷・陸前高田の写真を撮り続けている写真家・畠山直哉氏の姿を、畠山容平監督がドキュメンタリー映画「未来をなぞる」に完成。その公開に伴う制作費、上映経費、翻訳資金の支援を何卒お願い致します。
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1969年4月生 兵庫県豊岡市の中学を卒業後、1985年に北アイルランドの高校へ留学。北アイルランド、ベルファースト市のアルスター大学で芸術を学び、マンチェスター・メトロポリタン大学・大学院FINE ART修士課程を修了。ロンドンで作家活動後、1999年に帰国。その後東京の専門学校で講師や英語教師等として勤める。2008年に、東京渋谷のユーロスペースにて、北アイルランド映画祭を主催。現在豊岡市日高町の有限会社・石橋設計の代表取締役。
2011年の東日本大震災後から、故郷・陸前高田の写真を撮り続けている写真家・畠山直哉氏の姿を、畠山容平監督がドキュメンタリー映画「未来をなぞる」に完成。その公開に伴う制作費、上映経費、翻訳資金の支援を何卒お願い致します。
日本の現代美術を代表するアーティストの一人。1958年生。筑波大学芸術専門学群にて大辻清司に学ぶ。東京を拠点に、自然・都市・写真をテーマに作品を制作。国内、海外と数多くの個展・グループ展に参加しており、2015年4月からはアメリカのボストン美術館でも作品が展示された。
畠山直哉氏
写真家・畠山直哉。石灰石鉱山や炭鉱、密集したビルの隙間を流れる川や、都市の地下空間を写した写真などで知られ、2001年にはヴェネツィア・ビエンナーレ日本代表の1人にも選ばれた、世界的な写真家だ。2011年の東日本大震災で岩手県・陸前高田市の実家が流され、母を亡くして以来、彼は頻繁に故郷に戻り、変貌する風景を撮影するようになった。まもなく震災から4年。カメラを手に被災地を歩く者の姿も少なくなってきたが、畠山は変わらず風景写真を撮り続けている。誰の為に何の為に、なぜ撮り続けるのか? これはある1人のアーティストが、故郷の山河を前に、否応なく震災と向き合わざるを得なかった長い記録の断片をまとめたドキュメンタリー。被災のはてに1人の写真家が見た未来への希望とは、なんだったのか?
畠山氏@陸前高田にて
以下目次
特典についての説明 /想定されるリスクとチャレンジとQ&A
この映画の監督の名字も畠山であり、彼の祖先は気仙沼の出身です。そして畠山直哉氏が大阪で写真を教えていた時の受講生でもあり、それ以来の互いの長い時間の共有の中で、再び震災後にその二人が出会い、この度畠山監督がドキュメンタリー映画を制作するに至りました。
そしてこの作品は、兵庫県豊岡市の映画館・CINEMACTION豊劇 -豊岡劇場-の記念すべき第1弾製作作品となります。3年間の閉鎖後、2014年12月27日に再開した豊岡劇場は「映画だけじゃない映画館」を目指しています。豊岡劇場は「場」を持ってして「作る」いう行為を後押しすることで、新しい作品や価値観を共に形成して行きたいと思っております。
映画作品は既に完成しておりますが、未だに制作にかかった費用や、全国での上映、海外上映用に必要な翻訳・字幕制作費等における資金不足が想定されます。豊岡劇場は有限会社・石橋設計が運営をしておりますが、地方の弱小民間中小企業であり、映画館再開に必要とした資金もクラウドファンディングにて多くの方々に支援をいただきました。この場をお借りして、感謝の意をお伝えするとともに、厚かましい限りではありますは、是非再度の支援をお願いしたいと思った次第です。何卒ご理解とご協力のほど、よろしくお願い致します。
CINEMACTION豊劇 -豊岡劇場- 代表 石橋秀彦
(SIB合同会社・代表社員 石橋秀彦)
今や日本を代表する写真家であり、その写真は現代美術の領域でも評価され,国内外で活躍する畠山直哉(1957〜)は、2011年3月11日の東日本大震災の当事者の一人です。だがこの「当事者」という言葉ほど、震災後の彼を苦しめてきたものはありません。震災という巨大な自然・社会現象は、長年現代美術の場で作家活動を続けて来た畠山氏の写真作品にどのような変化をもたらしたのか。大震災や大きな社会的問題が生じたとき、現社会と現代美術との関係性をのなかで、いったい作家として、そして一人の人間として出来ることは何なのであろうかを映画作品の中で問いかけています。
畠山氏は、90年代後半から精力的に作品を創作し続けてきました。主に風景写真をモチーフに「都市と自然」をテーマに据えて、人間の暮らす世界の成り立ちをカラーの大判写真で鮮明に示し、時にはおぞましい風景さえも卓越した写真術で畠山流の美の世界に昇華させてきました。また自らの実践を論理的に考察する姿勢を貫き、日本の写真界の中でも独自のスタイルを確立してきたと言えます。
2011年3月に起きた東日本大震災は、岩手県陸前高田市出身の畠山にとって非常に辛い経験となりました。畠山は東京に自宅があるので難を逃れましたが、地震が引き起こした津波によって実家が流され、母親までも亡くしたことは、彼にとって3.11以前と以後の世界では決定的な境界線が引かれることになりました。畠山はそれまで発表することが無かった陸前高田市気仙町の風景写真を自分の作品として公表することを決めました。それらの写真は彼の暗室作業所の片隅でひっそりと眠り続けてきたもので、写真が入った箱のラベルには「Un petit coin du monde=世界の小さな一角で」と書かれています。2000年頃から自らの活動を省察するかの如く撮影されてきた陸前高田の風景写真は、世界中を旅し撮影してきた畠山の秘かな試みでした。
2012年9月に写真集「気仙川」(河出書房新社)を刊行。「気仙川」は震災以前と以後の陸前高田の写真に加えて畠山の書いた文章を読み進めていく構成で、その文章は極限状態の中にいた彼がその時にどんなことを考えて、どう行動したか、震災直後から1週間の様子が克明に記され、彼の生々しいドキュメントが報告されています。
この映画では今でも月に一度は故郷に戻り、震災後の陸前高田を写真に撮り続ける畠山に焦点を当て、震災以前と以後、都市と田舎、芸術と非芸術等の対立する諸問題の中間に立ち、考え続ける畠山に密着し、畠山の眼差しの在り処を映画作品として完成させました。
畠山 直哉(はたけやま なおや、1958年 - )
来歴
岩手県陸前高田市出身。1984年筑波大学芸術研究科修士課程修了。大辻清司の影響で写真をはじめ、大学卒業後は東京に移り活動を続ける。
生家の近くに大規模な石灰石鉱山があったことから、高校時代からこれらの採掘現場や工場を油絵などに描いていた。大学を出た後、岩手をはじめ日本各地を回り石灰石鉱山の現場や石灰工場、発破の瞬間、または都会の建築群や地下水路など、多様な光景を撮影するようになった。これらの作品は都市の原料(石灰岩、工場)から都市風景(高所から見た都市の俯瞰)、都市の解体(住宅展示場と化した大阪球場とその解体)、都市の裏側(ビルの間を流れる渋谷川や、都市の地下水路の内部)など、一貫して都市の問題にかかわっている。またイギリス滞在などを経て、工場の蒸気や車の窓ガラス一面についた水滴など、形の定かでない物、循環する物の撮影にも取り組んでいる。出版には1983年の「等高線」、1996年の「ライムワークス」「Citta in negativo」など。
1997年に写真集『ライム・ワークス』、写真展『都市のマケット』により第22回木村伊兵衛賞受賞。2001年には世界最大の国際美術展である「ヴェネツィア・ビエンナーレ」に日本代表の一人に選ばれている。同年、写真集『アンダーグラウンド』により第42回毎日芸術賞を受賞。2012年、個展『Natural Stories』で芸術選奨文部科学大臣賞受賞。
畠山直哉 『ブラスト#5707』
経歴
1984年 筑波大学大学院芸術研究科修士課程修了
1997年 第22回木村伊兵衛写真賞(「都市のマケット」、「LIME WORKS」)
2000年 第16回東川賞国内作家賞
2001年 第42回毎日芸術賞受賞(「Underground」)
2001年 第49回ヴェニス・ビエンナーレ日本館参加
2003年 日本写真協会年度賞受賞
2012年 芸術選奨文部科学大臣賞美術部門(「Natural Stories」)
畠山容平監督
『監督から 少々長い、映画までの経緯』
偶然にも畠山という名前の名字が一緒なので、不思議な感覚に囚われる方もいるかもしれませんが、兄弟や親戚関係では勿論ありません。私=畠山容平の父が陸前高田とは宮城県側の隣町である唐桑町の出身でありまして、この唐桑町には畠山という性の方が多く存在しているようで、全国的にも有名な牡蠣の漁師の方もいるくらい、畠山という性の産地になっている所です。私の父は高校生の時点で大学に行く為に故郷を離れます。そのまま東京で職を得て、結婚して、私も含めて3人の子供を育てあげて、私が23歳の時には癌を患い、若くして死んでしまいました。父は自分の好きな道を、家庭を省みずに歩んだ人でしたが、1つだけ遺言めいたものを残しました。自分の遺骨は唐桑の墓に入れてくれというもので、その意思を守り、唐桑のお墓に骨を埋めました。そのお陰で、1年に1回は唐桑へ、母や姉と一緒に訪ねていました。そして、何故だか分からないのですが、この墓参りの様子をビデオカメラで撮り、私が20代の時に通った二つの映像学校で、課題が出されると、その映像をある種、実験的に20分位の映像に纏めていました。そして、実はこの短い映像が監督としての、私の最初の作品となりました。偶然にも、当時、大阪のとある学校で学んでいた私の先生が畠山直哉さんでした。もう19年も前のことです。この年の締め括りに、有志10名程の写真展の中に、唯一のビデオ作品として混ぜて頂きました。この時の直哉さんの先生ぶりは熱心で、私はその先生ぶりを直哉さんの作品をよく知る前に知ってしまったことは、何か決定的なことだったのだと思っています。その頃から自分にとっては、常に襟を正される、尊敬すべき方でした。
今回の作品は2012年の3月11日から撮影がスタートしました。その約2年間に渡って、断続的にカメラを回しました。最初から映画にしようという目論見は薄く、建築家の伊東豊雄さんが計画した、被災した市民の憩いの場「みんなの家」プロジェクトに参加したことで、最初に直哉さんに関する短い紹介VTRを作った事が、結果的に言えば、映画へのきっかけになったと思います。この時は直哉さんが写真担当、私がビデオ担当ということもあり、陸前高田では一緒に行動していたので、その合間に撮っていたものが溜まっていったのだと思います。
震災後は、多くのアーティストや表現者が呆然自失、言葉にならないと言いながらも数多くの作品が世の中に溢れ返りました。やはり、それだけの事が起きた事は言うまでもありません。その中で直哉さんが震災後に発表してきた写真や文章は多くは語らないものの、全体のあり方よりも個人の人間のあり方を示唆するものとして、私には印象に残りました。彼が書いた幾つかの文章には、極限状態の中にいた彼の穏やかざる心中が克明に記されていましたが、それでもギリギリのところで冷静さを保っている直哉さんの文章に大変共感しました。あの惨状を目の前にして「悔しい」という言葉がありました。惨状になる前のおだやかで美しい現実を知っている直哉さんだからこそ、震災前の風化出来ない記憶を写真として示したと思います。そしてその悔しさがあるからこそ、前向きな気持ちを生み出し、その後続けられる撮影に繋がっていったと思います。
震災後の直哉さんの写真を見ていてまず思ったことは、この写真を撮っている直哉さんの心のありようでした。私たちの前では、そんなに暗い表情を見せる様なことはありませんが、やっぱり悲嘆に暮れている、時には怒っているのではないかと、感じることでした。写真から悲しさが透けて見えてくる、そんな感覚を直哉さんの作品を見て感じたことは今まで無かったことでした。それは私が畠山直哉という人間を知っているからなのか、そんな疑問も頭を擡げましたが、風景写真が何かを雄弁に語り掛けてくるような感覚に身を委ねました。そこに写し出されているものは、直哉さんが言う様に「晴れがましい」ものでもなく、ただただ陸前高田の現在の風景=あまりにも被害が甚大だった為に復興がなかなか進まない、ある意味では廃墟と化した場所でした。直哉さんはこの4年間に5千カットにも及ぶ膨大な写真を撮りました。性急な写真ではないものを求めてきた言う通り、これまでの復興のプロセスと言うべきものが、そこには写されていました。震災後1年や2年の経過時点から振り返れば、遅々と進んでいない様に見えた復興は、地道な努力と共に組織的に計画的に進んできたことが分かってきます。
もともと直哉さんの写真には、おぞましいものや否定的に捉えられがちなものでも、美しく肯定的に写してしまう、不思議な力があると思います。例えば、代表作の「ライムワークス」で撮影された石灰石鉱山の写真群などは、環境保護の観点に立てば、とても悠長に写真は見ていられないかもしれませんが、そこにはあるがままの物質の姿、自然そのものが写されているだけで、何かを意図的に批判しようとするような視線は感じられません。寧ろ、人間の思考を狭めてしまうものから解放してくれるような写真の力を見ることができました。
これまでの4年間を「淡々と撮ってきた」と簡単に言っていいものか、もちろん彼の中では様々な葛藤があったことでしょうし、振り返ってみればあっという間の時間経過だったと思います。直哉さんが長期間に渡って撮り続けられる秘訣はどこにあるのかと詮索してみると、「誰かを超えた何者かにこの出来事全体を報告したくて写真を撮っている」という発言にぶつかります。一度聞いただけではすぐには納得出来ないこの言葉の意味を考えながら、この映画を作り続けました。人間を超えた何かは、宗教的な超越者、もちろん神ではありません。畠山さんの仕事には一貫した哲学があると思います。徹底して自分の頭で考える、あらゆる依存を拒むものです。それを突き詰めて行けば人間理性の限界に直面した時にそれを超える何者かに出会わざるを得ません。つまり、私では無い何者かが主体となって、この私を見ているという様な、自己を観察する様な目を持っている。その方がよりリアルに私やら世界やらが見えくる、ということだと思いますが、畠山さんの透徹した眼差しは、その様な思考を経て生まれてくるのだと思います。
私の中では、いつ頃からか写真を見ていると「ここに住みなさい」と言われてる様な気持ちになってきました。こんな所から、否、こんな所になってしまったからこそ、ここに住めるだけの叡智を集めて、磨かなければならない、新たな未来に向けて人間に課せられた課題なのだと思えてきます。
写真集「気仙川」の後書きに、もう少しこのまま「後ろ向き」でいさてくれ、という言葉があります。これは何もかも忘れてすぐには前向きにはなれない、マスメディアが垂れ流す、「みんなひとつ」だみたいな欺瞞的なメッセージに対して、実は一人一人違った感情を持っているし、直哉さんは彼なりの仕方で復興に関わる、つまり一人の写真家として関わっていくことだと思います。震災後から始まったメディアの自主規制、震災対応の表現に対して、畠山さんは表現者として自分の関わり方を模索していたと思います。ある意味では、彼は写真家としては、これまでの自分を裏切ることなく、普段通りのことをし続けている。その事は震災という非常事態が起こった時には、周囲の理解が得られなかったり、非難されることだってある筈です。しかし、震災から早4年とは言え、故郷の風景写真だけを撮り続けていた人が他にいるだろうか、僕は寡聞にして聞いてことがない。では何故そんなことが続けられるのかと言えば「くやしさや悲しさを胸の奥で共有したい」という静かな思いが溢れていたのだと思います。それこそが真の復興を望む一人の人間のあり方だったのではないかと思います。
畠山監督プロフィール
1972年横浜市生まれ。映像系の専門学校を卒業。その後、自主制作の映画活動を友人としながら、プロの現場でADも経験していく。27歳の時にNPO法人映画美学校・ドキュメンタリー科にて映画監督の佐藤真に師事し、「映画監督って何だ?」メイキング版にて助監督を務める。2011年に「テレビに挑戦した男・牛山純一」で監督デビュー。2012年にはヴェネツィア・ビエンナーレ国際建築展日本館展示「ここに、建築は、可能か」のビデオ映像の撮影と編集を担当。今作品が2作目になる。
映画作品は既に完成しております。これ迄にいたる必要最低限の費用は確保されておりますが、未払いの制作費、これから必要となる宣伝広告費、上映経費、翻訳字幕費等が、ご支援の主な使用対象になります。最終的な総制作費は、約400万円を想定しています。
支援金の目標を150万円と設定させて頂いておりますが、それ以上の支援金が集まった際には、まずは今後予定される国内、海外での上映機会を増やす為に必要な経費として使用させて頂きたいとともに、今後豊岡劇場が制作していく映画作品の準備資金として使用させていただきたいと思います。
この作品を出来るだけ多くの人々に観て頂けるためファンドを集めておりますので、出来る限りファンドがどのように役に立ったのかをお伝えし、作品の進捗情報と上映情報を開示してまいります。
2015年2月 アーツ千代田3.11映画祭のプレイベント上映
2015年3月 ファイナルカット版完成
2015年7月 イメージフォーラムにて上映開始
アーツ千代田3331にて 2015.2.15上映会
「映画だけではない映画館」、映画館を応用した新しい「場」を創出し、自ら「作る」ことの出来る人材を後押しすることを目的としています。
豊岡劇場 兵庫県豊岡市
コンセプト
映画館を通した多種多様なアクションを起こす拠点。地域や国内外すべての人々と共に、今迄に触れたことのない、自由な発想を創造することが目的のオープンなプレイスを目指します。
私達の目的
兵庫県の日本海側、豊岡市にある映画館、豊岡劇場(通称:豊劇)は、昭和2年(1927年)に芝居小屋として始まり、社交ダンスの場、戦時中は倉庫、そして映画館と大衆文化の場として、常に多くの周辺地域住民に愛され続け、85年の長い年月を踏まえたのち、平成24年(2012)に一度閉館しました。
一度閉館した映画館を再生し、ただ再び映画館として復活させるのは、総人口8万人の一地方都市としては、事業として非常に厳しいと判断いたしました。その上で、ロビーはリノベーションし地域コミュニティーの拠点/BARとして再生、小ホールは座席を無くしフリースペースへ変更。大ホールは原型を保ちながらも、映画上映だけでなくイベント等を運営し、また室内駐車場はテナント店舗に改装し、日々の収益を上げて劇場の運営を続けております。
詳しくは 劇場ホームページ、もしくはMGのページをご覧下さい。
www.toyogeki.jp
https://motion-gallery.net/projects/toyogeki1927
プロデューサー:石橋秀彦 CINEMACTION豊劇 –豊岡劇場- 代表・SIB合同会社代表社員
1969年生まれ。1985年兵庫県豊岡市の中学校を卒業後、イギリス、北アイルランドへ留学。現地の高校を卒業後、1994年アルスター大学(ベルファースト)アート&デザイン学科を卒業。1995年マンチェスター・メトロポリタン大学ファインアート修士課程を修業。2006年、SIB合同会社設立。2008年2月、北アイルランド映画祭を主催、東京渋谷ユーロスペースにて。2011年に有限会社・石橋設計の代表取締役に就任。現在、兵庫県豊岡市の豊劇新生プロジェクトの代表として、閉館した映画館の復活と新生を計画実行中。
但馬の郷のハム&ソーセージ詰め合わせ
国際コンテストでも金賞を受賞した、豊岡市出石町にある但馬の郷で製造されたハムとソーセージの詰め合わせをご用意します。生産数に限度がありますので、写真の内容と異なる場合がございますことを、あらかじめご了承ください。
城崎温泉外湯めぐり券
城崎温泉は、志賀直哉の小説「城の崎にて」でも有名な、関西屈指の温泉です。街中には回遊できる7つの外湯があり、川沿いの柳道を通りながら、湯巡りを楽しめる外湯巡り券をご用意いたします。
アップかんなべスキー場1日リフト券
来冬にご使用いただける、豊岡市日高町の神鍋高原のスキー場アップかんなべの1日リフト券をご用意いたします。大阪から車で約2時間半、アップかんなべは家族でも楽しめるゲレンデです。
食事会では兵庫県北部地域が誇る食材であり、国産黒毛和牛の種牛でもある但馬牛のお肉をご用意させていただきます。
想定される最大のリスクとしては、作品公開後の興業収益の回収がうまくいかず、監督と製作者への経済的な負担が、次回製作作品に大きな陰をもたらします。私たちは、この作品が社会的な価値を持つと確信しその公開をしておりますが、最終的な作品評価はこの作品を見て頂く個人の方々の評価によるものだと思っております。ただしその評価を頂くためには、より多くの人に作品を頂く機会を増やすための宣伝や告知に必要な製作費用の確保が必要で、それが最大のチャレンジと考えております。
Q. 目標金額に達成しない場合リターンはどうなるのか。
A. 目標に達しない場合でも、集まった金額は費用に充当させて頂きます。(注:MotionGallery に支払う手数料が10% から20% に増えます。)チケットをご購入頂いた皆様への特典は履行されるのでご安心ください。
Q. 目標金額に達成しない場合、映画製作はどうなるのか。
A. 映画作品は既に完成しております。この作品は監督個人と、地方の一中小企業(豊岡劇場運営会社・(有)石橋設計とSIB合同会社:代表石橋秀彦)により、資金を調達してきました。映画公開は決まっており、最低限の資金は確保しておりますが、重なる製作費の負担は非常に厳しいものがあります。映画製作自体は何とか完成しておりますが、東京以外での上映や、字幕製作費などに余裕できれば、作品の字幕制作費や海外上映経費などの展開が見込めますので、何卒ご理解とご支援をお願い致します。
Q. もし支援金があまったらどうするのか。
A. 支援金が想定よりも多く集まった場合には、先ずは作品の上映機会を増やすための経費に使用させていただきます。そして2カ国語以上への字幕制作費と、映画祭等への参加必要経費の支払、もしくはDVDの製作経費などの使用が想定されます。またそれ以上の支援が集まった場合、豊岡劇場が次回プロデュースする映画作品の経費に使用させていただきたいと思っております。
主旨をご理解いただき、今回のプロジェクトにご参加、ご協力頂ければ幸いです。資金的な支援は無理、という方も大歓迎!ツイッター、フェイスブック、ブログなどで広めていただければ大変嬉しいです。
どうぞよろしくお願い致します。
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