母が遺してくれた日記/母の老いは自分の老い(「認知症のケアと看とり」第3回)
vol. 31 2017-05-31 0
5/11(土)に開催した「認知症のケアと看とり」第3回イベントでの東京都立松沢病院院長・齋藤正彦先生と関口祐加監督の対談の後編です。今回は齋藤先生とお母様のエピソードを中心にまとめました。医師として、息子として、お感じになられたことを、時に聞いているこちらが驚いてしまうほど包み隠さずお話ししてくださいました。
母が遺してくれた日記
齋藤先生(以下、齋藤):認知症の患者さんを取材したテレビ番組がありますが、たいてい記者の「撮りたい画」が先にあるんですね。「先生、こういう患者さんを探してください」と、物語ができてしまっている。だから「毎アル」も斜に構えて見たんだけど(笑)、すごく面白かったですね。1つはそういうストーリーというか、「こちら(撮影者)がかくあってほしい」っていうことがない。予想外のことが起こる。それが1つ魅力ですね。もう1つは、あのフィルムの中には、「患者さんとケアする家族」ではなく「母と娘」という関係が描かれている。「パーソン・センタード・ケア」ってそういうことだと思いました。生きてる人間が大事。「こういう病気の人をケアしてます」と言うけれど、病気が服を着て歩いてるわけじゃない。悪態をつかれた時は「まったくもう!」って思うこともあるし、一方で、涙ぐまれると「どうしたらいいの」と思う。そういうお二人のコミュニケーションが映し出されていて、それにとても魅力を感じました。
それはどうしてかというと、さっき母の日記の話をしましたが、僕はその日記についての論文を書くことにずっと躊躇しているんです。それは僕のマザコン・マインドをみんなに読ませるだけじゃないかって気がするから(笑)。母の日記と僕の日記を比べてみると全然違うんです。例えば、母はクリスチャンだったので、クリスマスは大事な1日なんです。その日の母の日記には「みんなが集まってきてくれてとても嬉しかった。だけど、みんなの話についていけなくなって、くたびれ果ててベットに入る。とっても残念。神様に許していただかなければ」と書いてあるのに、僕の日記では「せっかくみんなが集まったのに、母は途中でくたびれたと言って寝てしまった」となるわけです。「同じ日の日記なの?」って思うほど違う。でも、このお互いの日記から、アルツハイマー病になった母が苦しんで、僕は一生懸命ケアしようと思っていたけれど、実際のところでどこでピントがぼけていたのかっていうことが見えてくるんです。死ぬまで母は偉くて、僕はいかに母にケアされていたかというね。関口さんの映画を見ていたら、そういう論文を書くことはそんなに無駄なことじゃないのかもしれないと思えてきました。
関口監督(以下、関口):絶対、論文として書いていただきたいと思います。医師は客観的に「どういう風にアルツハイマー病である」という診断はされるけど、本人の世界を経験することはなかなか難しいと思うんですね。お母様と斎藤先生の日記の中には、一人称(お母様)と三人称(斎藤先生)の両方の視点がある。そのことがとても重要だと思います。その日記とそこに書かれている世界は、お母様が残してくれた何よりも価値のある遺産じゃないですか?
母の老いは自分の老い
齋藤:シリーズを続けて見ていくと、お母様の認知症の問題だけでなく、関口さんの体の問題にもなってきていますね。先ほどの映像(「毎アル ザ・ファイナル」特別映像)に「死んでいく自分を想像した」という言葉がありましたが、僕も同じことを思いました。母が有料老人ホームに入ることになり、その支払いをどうするかという時に僕が考えたのは「母のお金で支払った場合、僕が先に死んだらどうしよう」ということでした。結局、僕と弟が生きている間は二人で払うことにしましたが、母の老いは僕の老いでもあったんです。
僕の母は2週間で亡くなりましたが、それは僕が何もやらなかったからです。「熱があります」と有料老人ホームから電話がかかってきて、やがて「白血球が2000しかありません」という連絡が入りました。医者としては「白血球が2000しかない」と言われたら、すぐに大学病院に連れて行って、血液内科で急性白血病なりなんなりを調べなきゃいけないんですが、僕はそれをしませんでした。そのうちに1週間が経って、有料老人ホームから「どうするんですか?何もしないって言われても、このままでいいんですか?」と言われました。僕は施設のスタッフが気の毒だと思ったから、当時、自分が院長をしていた病院に母を移したんですが、病院のスタッフにも「何もしないでください」と頼みました。病院に移って1週間の内に、母はだんだんと食べられなくなってきて、本当に眠るように亡くなりました。これ、みなさんいい看取りだと思うでしょう?でも、僕はそうは思えなかった。それはどうしてかというと、母が亡くなるちょっと前に有料老人ホームの請求書を見て、「これが何年続くんだろう」って一瞬思ったんです。そう思った後で、何もやらないと決めたものだから、母が亡くなってから俄然心配になったんですね。「僕の判断はお金に目が眩んだのではなかろうか」って。僕があと10年、20年若かったら、そんなことは絶対に思わない。母の老いを見ることは、自分の老いを見るということでもあり、それは非常にしんどい経験でした。
関口:その心配はどのようにして解消されたんですか?
齋藤:遺言書があったんです。それは何度も書き換えられていて、アルツハイマーになってからも書き換えられていたから、部分的には辻褄があわないんだけど、書かれていることは遺言ではなくて「このようにケアしてもらいたい」という指示みたいなものでした。そこには「私は早く死にたいんだから、痛いことや余計な治療はするな」と書かれていて、それで僕は救われました。アルツハイマーで死んだ母に、現役の僕が助けてもらったんです。
関口:私の場合も母が認知症になったことで関係の結び直しができたと思います。母は私が映画監督になったことをすごくがっかりしていて、口を聞いてくれないこともあったんです。それが、10年前に映画を撮っていた時に初めて、撮影クルーを家に迎え入れてくれました。その時点で私はオーストラリアに20数年いたんですが、母が「日本に帰ってきてほしい」と言ってカメラの前で泣いたんです。今思うとその頃から、母の認知症が少しずつ始まっていたのかもしれませんね。母の私に対する気持ちも含めて、「天職が見つかってよかったね」とか(笑)認知症の前と後では、言ってることが全然違う!ていう(笑)。私はマザコンではないですけど、母が認知症になったおかげで、素直な気持ちを吐露してくれるようになり、それが関係の結び直しにつながっていく。そういうことをすごく感じて、面白いです。