「認知症の体験」と「忘れることの幸せ」について(「認知症のケアと看とり」第3回)
vol. 30 2017-05-28 0
5/11(土)に「認知症のケアと看とり」の第3回イベントを開催しました。この日のゲストは東京都立松沢病院院長の齋藤正彦先生でした。認知症専門医としてご活躍の齋藤先生と関口監督のお話を伺おうと、平日の夜にもかかわらず150人ほどの方がご参加くださいました。どのお話も深く考えさせられるものでしたが、笑いが絶えないとても穏やかなイベントとなりました。前・後編の2回に分けて、お二人の対談をまとめます。今回は前編。会場の雰囲気が少しでも皆様に伝われば嬉しいです。
認知症の体験
関口監督(以下、関口):講演会などで全国各地にいき、いろんな医師とお会いしました。中には、ご家族に認知症の方がいらっしゃる先生もいらしたが、皆さんそのことをあまりお話しされない。そんな中で齋藤先生はお母様が認知症であったことをオープンにされています。先生は講演会などで「認知症を体験する」と表現されていますが、そういう風にお話しをされるようになったのはどうしてでしょうか?
齋藤先生(以下、齋藤):僕にしたらカミングアウトをしているつもりはないんです。ただ、母親の話をしているというそれだけ。講演会で母の話をするのは、認知症の患者さんがどのように感じているかを初めて彼女に教えてもらったからです。母が有料老人ホームに入る時、何十年もつけていた日記帳を「研究に使え」と僕にくれたんです。僕たち医師は「長谷川式のテストが何点でした」と言いますが、母は「今、言っていることが思い出せない」と言う。「今、言っていることが思い出せない」ということがどれほど不安か、そういうことが切々と日記に書かれていました。
「体験する」というのは認知症だけの話ではないですね。癌だって股関節脱臼だって、すべて体験。でもそれを僕は職業柄、いつも外から見ていて「客観的であること」を「正しいこと」だと思っている。けれど、医者として治せないわけです。股関節脱臼なら整形外科の先生は治せますよ。でも、精神科医は治せない。治せないのに「病気だ、病気だ」と言ってどうするのか?治せないのだとしたら、ご本人やご家族が体験している思いを、悲しみを、少しでも潤いをもって感じられるというか、砂漠の中に一人で置いてけぼりにされたのではなく、「あなたがそばにいてくれてよかったわ、悲しいけれど」というふうに感じてもらえることが僕らの役目なのではないでしょうか。
関口:まさに、私が精神科医を大好きな理由が今のお話しの中にあると思います。同じ医療でも全然違うアプローチですよね?
齋藤:僕が院長をしている精神病院には、毎年若い先生がたくさん入ってきます。そういう先生たちに、「僕たちのできることはいかに小さいか、だから偉そうに「病気を治す」みたいな顔をしてはいけない」って伝えたいけれど、それは非常に難しい。精神科医だって難しいんです。
僕自身が「できることが小さいな」と感じたのも、ここ5〜6年の事です。院長になって20年ぶりに松沢病院に戻り、回診をしていた時に、僕の顔を見て「斎藤先生」って言われた患者さんがいらしたんだけど、僕はその患者さんのことを全然思い出せなかったんです。実は、僕が35年前に診察した患者さんだったんですが、その方に「院長ですってね。お偉くなって」っていわれて…。その20年、30年の間に僕はいろんな楽しい思いをして、いろんな仕事をして、評価もされて、凱旋気分で松沢病院に帰ってきたんです。けれど、その間、その患者さんはずっと病棟にいらした。「この方にこういう人生が待っている」ということを、30年前の僕は予想しただろうか?その方は何度も松沢病院の池に飛び込んで自殺を試みていました。その度に僕は躊躇なく止めていました。場合によっては、自殺しようとしているから「保護室へ」と言ったりもしたけれど、保護室に入れて留めたこの方の人生は、松沢病院の奥の病棟で、30年間ずっと医師と看護師の言うことを聞いて過ごす人生だったわけですよね。その後に残っている人生がどんなものか、少しでも僕に予測できていたら「自殺企図だから薬を増やす」といった馬鹿なことは言わなかったんじゃないかと。
関口:『毎アル ザ・ファイナル』の撮影でお会いしたスイスの女医さんが、全く同じようなことを仰っていました。彼女が医師として初めての勤務を終えた帰り、夜中の田舎道をガウンを着た女性が一人でトボトボ歩いていた。「どうしたんですか?お家に帰らないとダメですよ」と声をかけたら、その女性は「主人に会いに行くの。主人は森を抜けたところにいるから、会いに行かないと」と言う。女医さんはそんなところに家がないことを知っていたので、女性を無理矢理車に入れて、近くの老人ホームに送り届けたんです。でも、その施設では彼女がいなくなったことすら気づいていなかった。女医さんは私と同世代、まもなく60歳ですが、いろんな人生体験をしてきて、「今の自分なら、誰にも気にされない、いなくなったことも気づいてもらえないくらいなら、「主人に会いに行く」と思ったまま…」決して「森の中で死んだ方がいい」とは言わなかったけれども、「別のチョイスがあったと考える。そういう医者になった」って仰っていて、私はそのお話にすごく感動しましたね。
「忘れることの幸せ」
関口:私はこれまで「忘れることの幸せ」って思っていたんですけど、最近の母を見ていると「忘れることの幸せ」の割には感情の起伏がすごいんですね。本当に全部忘れてしまうのであれば、そういう感情も忘れちゃうんじゃないかと思うんですけど。じゃあ、認知症の問題はなんなのかと考えた時に、「記憶の壺にある自分のメモリーを必要な時に取りに行けない」という定義の方が「忘れる」という定義よりもしっくりくるような…。それは私自身が年齢を重ねて、その感覚がよくわかるようになったんです。「どこかでお会いしたな」という記憶はあるんだけど、それが出てこない。「記憶がある」というのはわかるんです。でもそれを取りに行けない。そういうことなのかな、といまは考えています。
齋藤:「忘れることの幸せ」という言葉でドッキリしたことがあるんですけど、20年くらい前に東大の講師をしていた時に、認知症の患者さんたちと一緒に、週に1度、回想法をやっていたんです。何週間か経って、いろんな話をし終わって、皆さんが親しんだところで、この次(来週)は何の話をしましょうか?って聞いた時に、メンバーのお一人が「物忘れ」って仰ったんです。今でこそ、認知症の方に「あなたには物忘れがあります」と平気で言いますけど、20年前はご本人に「あなたはアルツハイマーです」なんて伝えることはほとんどなかった。だから「物忘れ」と言われて、どうしようと思ったけど、ご本人が仰るんだったらしょうがないということで、テーマを「物忘れ」にしたんです。ところが「物忘れ」についてとなると皆さんいろんなことをお話しされるんです。先ほどの「名前が思い出せない」っていうようなものから、「嫁は忘れたと言うけど、わたしは絶対忘れていない。でも年中あるから、嫁に嘘をつかれているのでない限りは、私が本当に忘れてるのかもしれない。それがわからないのが不気味だ」っていうものまで。どんどんどんどん話が暗くなっていって、どうしようかと思っていたら、僕の患者さんのおばあさんが「でも、何も忘れられない人生はもっと辛いかもしれません」と仰ったんですね。その方は息子さんがお二人いらして、お二人とも統合失調症で、お一人は自殺なさっている。もしかしたら、この方は本当にそういう悲しみを忘れることによって、生きてらしたのかもしれない、って僕は思いました。そう思って、僕は言葉を飲んだんだけれど、他大の若い学生さんが「●●さんのように達観なさると、認知症になっても苦しくないですね」って言ったんですね。そしたらシーンと場が凍りついて、別の男性が「達観じゃありません。諦観です」って仰った。「だってしょうがないでしょう」って。「達観じゃなくて諦観」という言葉を聞いて、僕は「どうしましょう」っていう感じでしたね。「忘れることの幸せ」っていうのは、患者さんに言われたら、僕は「そうですね」って言うしかない。
関口:そういう風に思うことで「<私>が納得している」ということですよね?家族の<私>が納得している。私の妹ははっきり言うんですよ。母は良妻賢母でしたから「あんなにできた人がこんなになって」って。私自身は母の豊かな感情、認知症になる前にずっと隠していたものが、やっと見えてきて、それを「いい」と思いつつも、本人の苦しみを受けとる側として、私もどこか諦めている、というか…。この複雑さは、まさしく精神医学の分野で、認知症ケアというのはそういう心のマッサージなのではないかと思いますね。
前編はここまで。
後半は、齋藤先生の「毎アル」シリーズの感想を交えながら、「老い」についてのお話もご紹介する予定です。どうぞお楽しみに!
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