映画のテーマについて
vol. 14 2019-10-20 0
【なぜセクハラとジェンダー平等を描くのか?】
「フタバから遠く離れて」「ポルトの恋人たち」を撮って、なぜまたセクハラとジェンダー平等についての映画を撮ってるの?と何度か聞かれたので、今日は、僕がなぜこのテーマに取り組んでいるのかを、お話しします。
根底にあるのは、以前から感じていた日本独特の男女の格差への違和感でした。
2014年ごろ「フタバから遠く離れて」の上映で全国を廻っている時のこと、
岡山県津山市の教育委員会主催で、小中学校の先生にむけた上映会に招かれました。そこである小学校の先生が教えてくれました「うちのクラスは、半分以上がシングルマザーなんですよ」「えっ?」驚きつつ、話を伺って見ると、大阪や東京など都会に出て働いて結婚したカップルは、子供をつくるまでは良いが、何か些細な衝突で離婚してしまうと、女性は一気に経済的に窮地に陥る。子育てのため仕事をやめていたりすると、職場復帰は難しく、パートか派遣しかない。別れた夫からの慰謝料・養育費は拘束力がなく、払わない前夫も少なくない。だから、やむなく津山の実家に出戻りしてくるシングルマザーが多いのだという。
僕はそこに日本の男女格差の、最も大きな破綻を見た気がしました。社会的な、慣習的な、法的な上での男女格差が重なり、シングルマザーの立場が恐ろしいほど脆弱になってしまっている・・・。
一方、2007年にニューヨークから帰国した時、夫婦別姓で結婚していたカミさんと僕は日本の職場にフィットする上でいろいろ苦労をしました。特にカミさんの方は、仕事はジュエリーデザインですが会社は男社会で「なんで女性に何も決定権がないの?!女性の判断は、信頼ならないという偏見がある!アメリカと全然違う!」と怒っていました。女性がアシスタント的な仕事をして、男性が最重要な決定や判断をするという前提に憤っていたのです。
ここに共通するのは、「男だから〜」「女だから〜」という社会的な役回りに押し込める日本社会のシステムが、男女の格差を生む温床になっているということでした。それに気づいて以来、いつかこのテーマで映画を自分は作るべきだと思ってきました。
この国のセクシャルハラスメントも、根底にあるのは、男が女性をバカにした目線ではないでしょうか。女性の上司には、決して言わないような軽口や猥談、容姿へのコメントなどを、部下や同僚に平気でのたまうのは、無意識に女性を軽蔑し、ナメているからでしょう。男の方が知識や判断力があり、女性は視野が狭く、感情に流されやすい、などの誤ったステレオタイプもまだ社会に根強くあり、これはセクハラの背景にある女性蔑視と、まさしく同根なのです。
そして、このテーマになると途端に男性は口を閉ざします。自分に分が悪い、加害者だから何も言えないと、距離を取ろうとします。ジョークで誤摩化そうとします。————だからこそ、自分は男性の映画作家として、進んで声を上げるしかないと思いました。つまり、いつでも加害者になる危機感と覚悟を持ちながら、環境を男性の方から変えようと働きかけることです。
人は言葉で説得するのは難しいもの。それよりも環境を変える方が手っ取り早い。これからは、国会でも会社の上層部でもジェンダーバランスを意識させ、最初は7:3、将来的には5:5の男女比を強制してゆくしかない。そうすれば、男性は自然と適応せざるをえなくなるから・・・。女性蔑視の根強い日本の男性社会を変えるには、ジェンダーバランスを意識するという制度を当たり前にしてゆくことが第一歩だと思います。
今回の映画「些細なこだわり」は、セクハラの根底にある男女の格差を痛感し、ジェンダーの平等が必要だ、と気づいてゆく主人公たちを描いています。
この物語に一人でも多くの人が共感してほしいと願っています。
すばらしい映画になるよう全力を尽くしたいと思います。
舩橋淳