被災地の黄色いハンカチ
vol. 11 2023-01-30 0
いよいよクラファン、残り6時間となりました。ここではちょっとした陸前高田のエピソードを紹介します。
被災地の幸せの黄色いハンカチ
被災地で取材活動をしていた私が陸前高田で菅野さんと出会ったのは、2011年5月3日、震災の傷跡も生々しい陸前高田の気仙町だった。初老の男性がひとり瓦礫の上で泳ぐ鯉のぼりの下に佇んでいた。
「どうして鯉のぼりを上げているのですか?」と私が尋ねると、「みんなが元気になるように願って立てたのです」と答えた。「変人扱いする人もいるけどね」
それからしばらくして再訪し、鯉のぼりのたもとで菅野さんと話していると、「ここに大漁旗を立てたい」という。どうして大漁旗を立てたいのかと私が尋ねると、「大漁旗は福来旗と言って陸前高田では進水式のときに立てる旗。新しい出発を意味するのです」菅野さんは落ち込んでいるみんなに前を向いて欲しかったのだ。
そしてポツリ「黄色い布も飾るつもりです。何十枚も」私にはその意味が当初分からなかったが、被災地で布を見つけるのもたいへんだと思い、自宅から黄色い布を送るよう手配をした。
それから1カ月後、フォトジャーナリストの安田菜津紀さんから瓦礫の上でなびく大漁旗と黄色い布の写真がtwitter経由で送られてきた。それを見てやっとその意味がわかった。黄色い布は幸せの黄色いハンカチの旗だった。山田洋次監督の「幸せの黄色いハンカチ」が公開されたころ、菅野さんは舞台となった夕張の炭鉱へ出稼ぎにいっており、その映画を見てとても感動したという。菅野さんの立てた黄色いハンカチの旗には、あの映画で高倉健と倍賞千恵子のように「必ずここへ帰ってくる」という思いが込められていたのだ。
それから2カ月したある夜、自宅に電話があった「山田洋次と申します....」突然の巨匠の電話に驚いたが、話を聞くと、私の写真集を見て、この旗を知り、たいへん感銘を受けたという。「あの旗を見守る旗を立てたいのです」
その年の8月、私と山田洋次監督は陸前高田にいた。もちろんその約束を果たすためだ。翌年の2月に再度訪問すると、無人の雪の中で、ふたつの黄色いハンカチの旗がまるで絆の象徴のように仲良く並んでおり、その向こうには津波に耐えた一本末が佇んでいた。
その風景は被災地の希望の象徴のように見えた。しかし大変なのはそれからだった。嵩上げ工事が始まり、黄色いハンカチの旗は撤去され、瓦礫は取り除かれ埋め立てられた。数年後には山の中腹に新しい住居地が開発され、多くの住民は待ちきれずにそこに新居を構え始めた。
しかし菅野さんは動かなかった。仮設住宅に黄色いハンカチを飾り、ずった待ち続けた。菅野さんの帰る土地はひとつしかなかった。
震災から10年を経た、2021年3月11日、再び現地を訪れた私と十兵衛の前には奇跡の光景が広がっていた..... そんな話も映画の中で紹介していくつもりだ。