プロダクションノート#1
vol. 2 2018-05-13 0
監督による『菊とギロチン』発案から完成までの記録。
全5回に分けて掲載します。
本日は、その初回。
【映画化に至るまで】
「菊一輪ギロチンの上に微笑みし 黒き香りを遥かに偲ぶ」
古田大次郎が死刑に処された折、獄にいた中浜哲が追悼に送った句だ。1980年代の中頃、助監督時代に、この句を知り「ギロチン社」についての映画を夢想。社会を変えようと、たとえやり方は過激であり滑稽に見えさえしても国家に死をもって処された若者の姿を描きたかった。だが、彼らは高等遊民的で生き方にリアリティがない。今の映画として成立するだろうか。1990年、出版されたばかりの『少女プロレス伝説』(著・井田真木子)を読む。女子プロレスの元祖として興行女相撲のことが書かれていた。女相撲とギロチン社を合体して描くことで地に足の着いた、自由に生きようとする若者たちを描けると思った。1995年、ロッテルダム映画祭でピンク映画特集が行われた折、オーガナイザー的役割を担っていた坂口一直(本作プロデューサー)より請われ企画マーケットへ企画『菊とギロチン』で参加。この時既に、初稿の脚本は完成していた。その後、知り合いの会社等に企画提出するも成立せず。その間、脚本の書き換えは何度も行う。
自主企画『ヘヴンズ ストーリー』後、東日本大震災を経て、関東大震災の資料を渉猟し大幅の改稿。より社会的なテーマへとつなげる。「戦前」の雰囲気への時代の共通点を見つけたことが大きい。2013年、「空族」の相澤虎之助に脚本協力を要請。当時、相澤は『バンコクナイツ』の撮影準備中だったが快く承諾。元々社会運動に興味があった相澤の視点と南方志向、音楽的側面が導入される。脚本は進んだが相変わらず資金はなかった。だが、いつまで先延ばししてもダメだ。坂口との話し合いを経て2016年秋をクランクインと決める。2015年11月、京大西部講堂での『ヘヴンズ』凱旋上映で『菊とギロチン』発動を宣言。この時、主催の西連協の田所大輔は以降もバックアップを続けてくれている。12月、タイトルデザインの赤松陽構造氏の好意により題字等を書いてもらい、制作資金と出演者募集のHPと動画とチラシを作成、恒例新宿K’sシネマでの『ヘヴンズ』上映で発表。撮影へ準備が始められた。
2015年京大西部講堂のチラシ 裏面下部に「重大発表あり!」とあるが、これが『菊ギロ』発動宣言
次回へ続く