『第七官界彷徨ー尾崎翠を探して』上映
vol. 58 2025-01-17 0
浜野佐知監督の自主制作第1作『第七官界彷徨ー尾崎翠を探して』(1998年)が、2月から3月にかけて、国立映画アーカイブと京都国立近代美術館で、相次いで上映されます。(スチール写真はモノクロですが、作品はカラーです)
三部構成のうち、尾崎翠の後半生を追った「尾崎翠を探して」パート。尾崎翠を白石加代子、親友の松下文子を吉行和子が演じた。それまで定説だった悲劇の後半生を塗り替える。
尾崎翠原作の「第七官界彷徨」パートの小野町子役の柳愛里。「私はひとつ、人間の第七官にひびくやうな詩を書いてやりませう」という詩人志望の町子を、見事な透明感で演じる。
◉国立映画アーカイブ
「日本の女性映画人(3) 1990年代」
『第七官界彷徨ー尾崎翠を探して』上映日
2月18日(火)19時より/3月16日(日)16時より。
https://www.nfaj.go.jp/film-program/women202502/
◉京都国立近代美術館
「Wandering Films」(彷徨の映画たち)」
『第七官界彷徨ー尾崎翠を探して』と『白薔薇は咲けど』(1937年・入江たか子主演)の両作品を上映。
『第七官界彷徨ー尾崎翠を探して』は2月22日(土)14時より/23日(日)11時より。
https://www.momak.go.jp/Japanese/films/2024
https://www.momak.go.jp/Japanese/films/2024/momakf...
<作品について>
旦々舎HPより。(以下は、98年時点で書かれたものです)
https://tantansha.main.jp/ozaki.html
◉尾崎翠とは誰か
尾崎翠は、今から60余年前の昭和初年代に「第七官界彷徨」や「こほろぎ嬢」「歩行」などの傑作を発表しながら、人生の半ばにして、日本文学史からふっつりと姿を消した幻の作家だった。林芙美子のような親しい友人にも「気が狂って死んだ」と思われていた尾崎翠が復活するのは、1969年のこと。新機軸の文学全集に「第七官界彷徨」が収録され、その時代を越えた風変わりな作風が、新鮮な衝撃を与えた。そして、作者が故郷の鳥取で、老後の日々を送っていることが確認される。35歳の時に、頭痛薬の中毒で鳥取に戻って以来、37年目の復活だったが、2年後、74歳で亡くなる。生涯、結婚することはなかった。
尾崎翠は、主流派の自然主義の作家たちとは違って、自分の私生活については、ほとんど書き残していない。こまごまとした日常生活や恋愛事件など書くに値しない、現実や日常を越えた新しい感覚の世界を表現するのが文学だ、と考えていた。それで、尾崎翠の死後、彼女の人生をめぐって、いくつかの憶測や伝説が生まれる。なかでも、死の床で「このまま死ぬのならむごいものだねえ、と呟きながら大粒の涙をぽろぽろと流した」という余りにも有名な一節は、まるで彼女の「孤独で悲痛な」人生のシンボルのように流布した。翠の後半生は「空しく老いつづけた」「生ける屍」だったというが、しかし、はたしてそうか? 90年あたりを境に、女性の作家や研究者が新しく尾崎翠を読み直す機運が生まれ、当初の蒼ざめて悲愴なイメージを一新しつつある。
◉そんなミミッチイ次元じゃない
現代のパーティーシーンに特別出演していただいた矢川澄子さん(詩人・作家)は、次のように話す。(割愛部分より抜粋)
「東京に出てきて、まともな結婚もしないで故郷に連れ戻される。それはやっぱり、家父長的な男たちにしてみれば、とってもミットモナイことだと思いますけれど、尾崎さん自身が考えていたことって、そんなミミッチイ次元じゃなかったと思うのね。
いわゆる男の人の概念でみますと、作家というのは作品を書くことで『身を立て、名を上げ』式のものですが、尾崎さんはそんな立身出世に結びついた一つの職業としての作家を選びとったんじゃない。もっと大きなところから人間や社会や宇宙を見つめていた。故郷で甥や姪の世話をしていますが、それを男の視線で可哀そうというんじゃなくて、甥や姪や作品の世界さえも全部平等に見てたっていう感じがする。世の中に名前は広まらなかったかも知れないけど、頼れる伯母さまとして慕われていた。それと作品の世界で発散していたものと、ほとんど同等じゃないかと思う」
◉境界線を揺るがす過激思想のかたまり
同じくTVモニターで出演いただいた加藤幸子さん(作家)は、時代に先駆けた尾崎翠の根本思想について、次のように指摘する。(同・抜粋)
「私たちが一般的に思う女とか男とかっていう境界線がなくなる感覚というのが、私たちの中に存在すると思うんですね。第七官の世界に踏み入ると、日常的にはごく当たり前だと思っていた観念が崩れ落ち、すべての境界線が揺らぎ始める。この作品全体の印象は、すごく細かい配慮で書かれているにも関わらず、なにかノンビリした、私たちの郷愁をそそるような懐かしい雰囲気に満ちています。物静かで、騒がしくない作品です。それにも関わらず、この作品今までの既成の秩序を突き崩してしまうような、秩序を保つために作られた境界線というものを崩してしまうような、過激思想のかたまりではないかと私は思っています」
わたしたちの映画は、鳥取の地に閉塞しているように見えながら、秋晴れの日には白い風にまたがって太陽系に遊びに出かける気体詩人(「神々に捧げる詩」)を、どこまで追跡できたでしょうか。
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