山梨の金子文子の歌碑 番外
vol. 39 2024-11-30 0
歌碑のある、元・金子文子の母の実家のすぐ裏手にある円光禅寺。『何が私をこうさせたか』では単に円光寺と記されている。
朝鮮から帰ってきた文子を迎えに来てくれたのも、円光寺の娘だった。
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郷里の駅に着いたのはそれから三日目の夕方であった。父が以前いたことのある円光寺の千代さんが私を迎えに来てくれていた。
私より二つ三つ年上の千代さんはいちはやく私の姿を見つけて駆け寄って来て私の手を固く握った。
「まあ、ふみさん、よく帰って来ましたね」
「ありがとう。とうとう帰って来ました」
こう言って私達は互いに手を握り合ったまま、しばし無言のままで立っていた。
私は何も話したくなかった。嬉しいような、面目ないような、何とも言いようのない心が私に沈黙を守らせた。
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「父が以前いたことのある円光寺」というのは、文子が生まれる前の話で、鉱山採掘をする山師と知り合った父、佐伯文一(ふみかず)はタングステン試掘のため1年半ほど円光寺に下宿。その間に文子の母、きくのと関係ができた。試掘は成功せず、文一はきくのと共に横浜に出る。文字通りの「山師」であった。
文子が母の郷里であまり面白くない日々を過ごす中で、救いとなったのが山の自然との出会いだった。
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(前略)ぼんやりと大家の門口に立っていると、以前の学校友達が二、三人、籠かごを背負って鎌かまをもって登って来た。私達が互いに多少大人びた挨拶を取りかわした後、どこへ行くのかと私は訊ねた。
「蕨(わらび)採りに行くだ」と友だちが答えた。
急に私は、自分も一緒に行ってみたいという気になった。
「ちょっと待っててくれない? 私も行くから……」
みんなは私の願いを快く容いれてくれた。私は家に帰って、こっそりと山登りの仕度したくをして飛び出して来た。
澄んだ水の流れている岩の多い、渓川の辺を通って、私達は歩いた。こんもりと繁った樹の間には、虎杖や木苺や山独活が今をさかりと生い立っていた。私の知らぬさまざまの草木が芽生えたり、花を開いたりしていた。しんとした、しめっぽい森林の中で鶯があちらの山こちらの谷と順送りに鳴いていた。そうした森の中の道を通りぬけると、芝生が生えているのかと思われるような山が前方に聳そびえ立っていた。霞がふうわりとそれらの山に垂たれこめていた。
山はもちろん芝生に覆われているのではなかった。かなり背の高い灌木が自生しているのだったけれどまだ青葉の五月には早い。私達は容易にその間を歩きまわることができた。
真綿で頬かむりしたようなぜんまいが、洋髪に結んだような蕨が、簇々と生い立っていた。それを根もとからぽっきりと折って籠の中に入れた時の喜びッたらなかった。
散り散りに別れて、大きな声で呼びかわしながら、喋りながら、はては歌いながら、裾すそから頂きへ、頂きから山の尾を、そうして私達は、みんな籠一ぱいにぎっしりとつめて帰って来た。
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文子の自然との交感は弾むようだ。円光禅寺の裏手にこんな山があったが、母の実家や寺自体が大きな山の斜面にあるので、百年前に描かれた山がどこであるかは特定できないと思われる。
なお、支道から歌碑や円光禅寺へと曲がる目印は大室公民館だが、これがとても分かりにくい。行かれる方はご注意。