山梨の金子文子の歌碑
vol. 33 2024-11-10 0
山梨市牧丘町杣口(そまぐち)にある金子文子の歌碑を訪ねる。母の実家の一角に建てられた。
文子は1903年に横浜で生まれたが、父が叔母と駆け落ちし、母と都会で食い詰める。1911年、母と共に諏訪村杣口(当時)の実家に戻った。そして翌12年、朝鮮の祖母・叔母の家に引き取られる。女中のように酷使され、地獄のような日々を送った後、1919年、杣口に帰った。
現在は山梨市牧丘町だが、電車で行くなら甲州市のJR塩山駅下車でタクシーとなる。バスもあるようだが、本数が少なくバス停も分かりにくい。塩山駅の北口からタクシーに乗るが、台数が少なく、南口の方が捕まえやすいようだ。
タクシーに乗っても、運転手が金子文子の歌碑を知らない。近くにあるはずの大室公民館も不明で、無線で問い合わせていたが、一人合点で相当手前で降ろされる。3千円弱。歌碑は見つからず、Googleマップを見ると表示されている。ずっと遠くだ。タクシーは無線でやり取りして間違いに気づき、再び乗せてくれる。山の斜面の細い道を辿り、今度は公民館の角を曲がって、歌碑と思しきところに到着。料金は受け取らなかった。
左手の道から入ってきたが、植栽で仕切られた草ぼうぼうのところに碑らしきものが建っている。かなり大きい。これが金子文子の歌碑なら、左手の家屋は母、きくのの実家だ。
確かに金子文子の歌碑に間違いなかったが、こちらに見えていたのは背面。しかも汚れが付着して、文字が極端に読みにくい。
かろうじて書き出しの「金子ふみ子」、末尾の「栗原一夫 撰」は確認できた。獄中の文子や朴烈をバックアップし、「何が私をこうさせたか」や歌集の出版にも尽力した同志栗原一男は、戦後「一夫」に改名したとか。
斜面の下の道の角から見ると、繁茂した枝で歌碑は隠れてしまう。母の実家は歌碑のある土地も含めて売却され、国際観光旅館の看板が出ていた。しかし、近くの葡萄農家の方によると、オーナーが訪れた時にだけ開ける別荘のような使われ方だとか。
相当手入れされていない様子が窺える。葡萄農家の方によれば、年に一回ぐらい人が集まって追悼の集まりが行われていたが、最近は見かけないという。コロナ禍で「文子忌」が中止になり、さらに主催していた「やまなし金子文子研究会」の佐藤信子会長が2022年に亡くなったことが影響しているのかも知れない。
土地の隅に、外側を向いて碑が建てられているのも不思議な気がしたが、これも葡萄農家の方によれば、斜面の下側に広がる葡萄畑(ワイン用)も母の実家の土地だったとか。歌碑の前も大きく開けていたのである。
「逢いたるは たまさかなりき 六年目につくづく見し 母の顔かな」
大審院で死刑判決を受けた後、市ヶ谷刑務所に戻った文子に、母きくのが面会した。その時の歌に、以下もある。
「意外にも母が来たりき郷里から 獄舎に暮らす 我を訪ねて」
「詫び入りつ母は泣きけり我もまた 訳も判らぬ 涙に咽びき」
「何がなと話続けて共に居る 時延ばさんと 我は焦りき」
*現在、入手可能な金子文子の歌集は、1976年『金子文子歌集』と、2027年版を復刻した1990年『獄窓に想ふー金子文子全歌集』(いずれも黒色戦線社刊)がある。一部の短歌の語句に異同があり、編者の栗原一男と古川時雄が最終的にチェックした1976年版を紹介した。なお、歌碑の歌について、両バージョン共に「たまさかなりき六年(むとせ)目に」とルビが振ってある。
今では、母の実家の土地の隅に、外を向いて建っている歌碑だが、斜面を遠く見下ろして、途中の山越しに甲府盆地の市街地が見える。葡萄農家の方によれば、正面の山並みに雲がかかっているが、天気が良ければ富士山の五号目あたりから上が現れるのだとか。
13歳の文子が錦江に身を投げようとした時、思いとどまって見上げた芙蓉峰が、杣口から見える富士山に似ているという話を読んだことがあるが、果たしてどうか。
なお、帰りのタクシーは、迎車料金600円を加えて、3千数百円だった。