Life Story その1
vol. 9 2021-08-23 0
自然に寄り添った暮らしって何だろう?
僕は2011年の東日本大震災のとき東京に住んでいて、美大を出た後は好きな音楽で何とか暮らしていけないかと模索しながらアルバイトと先輩のレーベルの手伝いを掛け持ちして、何とか生計を立てて生きていました。多くの人がそうだったように、あの日をきっかけに何かが「吹っ切れた」のを感じ、これからの人生をどうやって生きていこう?と1年間真剣に悩んだ末に、栃木の実家へ帰ることにしました。食べていける当ては何もなく、妙な確信に満ちた、たった一つの理由は「土があれば生きていける」ということだけでした。
土に触れる暮らしは、それが収入に結びつくこととは関係なく、とにかく至福でした。朝起きて、土から芽を出す種の息吹を感じたり、露に濡れた葉の美しさを眺めたり、そこに住まう生き物達のドラマに感動したり。畑の中には全てがあってずっと自分の人生の中で欠けていたピースを取り戻した感覚でした。
ちょうど世間は放射能汚染という目に見えない存在と折り合いをつけることに苦心していた頃、耕さず、化学肥料も農薬も使わない野菜の栽培には土中の菌根菌や根粒菌などの働きが大きく影響していることを知り、同じく目に見えない菌の世界にも興味を持ちはじめました。
そんな折、実家の本棚にあった千葉の酒蔵・寺田本家の先代、寺田啓佐さんの著書『発酵道』を何となく手に取り、その中に書かれてあった、自分にできることを最大限に発揮することが他の誰かの助けになる、という「相利共生」というキーワードに心を射抜かれました。人と人とのつながりも全く同じであり、これからの時代のコミュニティの理想形をそこに見て、改めて自分にしかできないことって何だろう?と考えを巡らせるようになりました。
祖父の存在
宇都宮の実家からは車で40分ほど、八溝山脈の麓で蛇行した那珂川に包まれ、まさに龍の腹のなかのような台地に祖父母の家はありました。米や野菜、煙草の葉などを育てながら、私の父や叔父と一緒に川に入り舟を操り、鮎や鰻をたくさん獲って、それを収入として暮らしていました。詳しい年は定かではありませんが、祖父は壮年、この地方で「寒竹(かんちく)」と呼ばれる細い竹で籠を編むことを隣町で教えてもらった後、自分でも農閑期にたくさん作りはじめるようになりました。
私が幼少の頃、そこに行って楽しかった思い出といえば、田んぼでヤゴを探したり、裏の沢で粘土を取ってきてこねてみたり、納屋に隣接した祖父の小さな仕事場から竹をもらって従兄弟たちと弓矢を作って遊んだりしたことでした。
30歳を過ぎて、農家という訳ではないけど自分が畑をやるようになってオーバーラップしてきたのはやはり祖父の姿でした。幼少の頃に見たあの田舎の風景はとても豊かで楽しそうだった。食べるものを自分たちで賄い、暮らしの道具もなるべく自給する。あそこに居るときだけは、時間もゆったり流れているように感じた。やっぱり生きてる感覚を得られる暮らしって、こういう毎日の連続だよな…と改めて実感。
現代はインターネットを通じて共通の趣味や考えを持つ人と簡単に繋がることもできる。では祖父母のやっていたような暮らしを現代にアップデートしたらどうなるんだろう?というところを起点に、私の「半農半竹」の道は開かれていきました。
内弟子修行時代
32歳になった日に生まれて初めてナタを買い、竹細工を始めました。最初は宇都宮のカルチャースクールで習いましたが満足できず、先生に相談したところ、家に来るか?というびっくり仰天するようなお声がけを頂き、こんなチャンスは人生で何度も無いと思い、意を決して県北の大田原というところで内弟子(住みながら家事をこなし、仕事も教えてもらう)に入りました。
住まわせてもらった3年間で楽しいこと、辛いこと、色んな貴重な経験をしましたが、技術を学ぶこと以上に、師匠の仕事への心構えや人付き合いを大切にしている姿を間近で見ることができたことが何よりの経験でした。
自分はどんな暮らしがしたい?循環型の暮らしってどんなこと?どんな籠が作りたい?夢を現実にするために、毎日毎日、具体的な問いを自分に投げかけ、それを実現するためにはどうしたら良いかをずっと考えていました。ものづくりを仕事にすることへの実感はまだ無かったけれど、大切な軸を忘れなければきっと大丈夫、というまたまた妙な確信だけはこのとき持っていました。
妻との出会い
問いの中で、理想の社会とは?と考えたときに、コミュニティの必要性を感じていました。
それは集落のような行政区分によって生まれるものではなく、自然発生的に自分軸で動く人たちが集うような場のイメージでした。しっかりとした自分軸を持ちながらも、ゆるく他者へも依存する。「依存」というと聞こえが悪いかもしれないけど、「自分よがりをやめる」→「心から頼りにする」と解釈すれば、それはその人にとって喜びのベクトルとなり、世間一般に思われているような、迷惑をかけるという行為とは別のものになる。先に書いた、菌における「相利共生」は、まさにこんな世界なんだと信じていました。
後に妻となる尚子とは、修行時代の後半に竹林整備のイベントを通じて知り合いました。
その頃ちょうど彼女は「パーマカルチャー」や「ワールドシフト」「トランジションタウン」といったキーワードで繋がるような仲間たちとの活動を積極的に行い、まだその輪にどこから入って良いかも分からずモヤモヤしていた自分には輝いて見えました。反対に彼女から見た自分は、「地に足を着いた生き方」を実践している人として頼もしく感じたそうです。
彼女がオーガナイズしてくれた竹細工のワークショップを通じて、だんだんと気の合う仲間も増えていき、まだ技術は半ばだけど、自分も竹で人を喜ばせることができるんだ!と少しづつ自信を持つことができるようになっていきました。
茂木へ
自分のなかで決めていた3年という修行期間を終え、工房を探そうと思ったときに真っ先に浮かんだ風景は祖父母の家でした。八溝山脈の麓、栃木県東部は那珂川を中心に水が豊かで美しい里山の原風景が残っているところ。車を走らせ流れる景色を見ているだけで、何とも言えない郷愁感が込み上げてくる。
たまたま見た茂木町の空き家バンクに格安の家があり、気になったので翌日さっそく役場へ赴くと、実際に家を見せてもらえることに。
案内してもらいながら、その集落へ急勾配の坂を下って入っていった瞬間、目の前に広がった美しい雑木の山々と青々として立派な竹林の景色に鳥肌がたちました。しかもその家は畑も駐車場も納屋もあり、栃木へ帰ってきてから思い描いて暮らしが、ここで全て実現できるじゃないか!と感動し、契約したい旨を伝えると、トントン拍子に話は進み、1週間後にはもうその家に住んでいました。(後日知ったのですが、私の前に何人も内見に来ていたけど誰も決めなかったそうです)
引っ越したその日、近所をうろうろしていたら裏山にある小さな社のなかで集落の方が6名くらい集まり、持ち寄った重箱のおかずやお酒を広げて何やらお祀りをしている。初めましてと声をかけると、「まあ一杯どうぞ」と呼ばれご馳走になり、不思議な歓迎を受けた。
後にここが、水源の真上にある社だと知り、再びを衝撃を受けるのでした。
つづく