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映画評論家 佐藤忠男のドキュメンタリー映画の完成をクラウドファンディングで実現!
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グループ現代は、50年以上の歴史をもつ経験豊かな総合映像制作会社です。 そもそも“グループ現代”という名称は、数名の志あるメンバーたちによって、誰もが自己の映像制作を実現するという“場の精神”に基づいて付けられました。 現在もその志を継承し、映画、テレビ番組、広報・教育映像、展示映像、特殊映像、DVDの制作に至るまで幅広く活動しています。 私たちは、現代社会が抱える問題や課題を見つめ、新しい可能性を模索し独自のスタイルを追求します。映像という表現メディアを通して、いま、そして未来へのメッセージとなれば…と考えています。
日本を代表する映画評論家、佐藤忠男の苦難と喜びでいっぱいの映画人生を描く。カメラは佐藤の“たからもの”を探しに、日本各地、そしてアジアへと旅に出る。映画を愛し続けた映画評論家が私たちに残したメッセージを探る映画。
日本映画の監督たちを研究して海外へ紹介し、日本の歴史を体系化した映画評論家、映画史家。
"SATO TADAO"の名は世界に知れわたり、韓国、モンゴル、ベトナムなどから勲章をもらった、唯一無二の映画評論家。日本映画大学初代学長。
1930年新潟市生まれ。古本屋と映画館が勉学の場であった佐藤は、国鉄や電電公社の修理工として働く傍ら、独学で映画評論家の道を切り開いた。
新潟市立工業高校定時制を卒業し、大衆映画論「任侠について」で、哲学者鶴見俊介に認められ上京。「映画評論」「思想の科学」の編集を務め、1973年、妻の久子と個人雑誌「映画史研究」を編集・発表。以後、映画を中心に、大衆文化、教育などと幅広い分野にわたり執筆活動を展開。
少年時代
投稿家から評論家へ
1991年より16年間にわたり、アジアフォーカス・福岡国際映画祭のディレクターを務め、アジア、中東など各国隅々に奥深く分け入り、映画人たちと交流を図った。
今村昌平が作った、横浜放送映画専門学院に1976年から講師、1996~2011年、日本映画学校校長、2011年~2017年、日本映画大学学長として、更新の育成にも尽力した。2022年3月17日、胆のうがんのため死去。91歳。
著書は150冊を超える
〈佐藤忠男自薦11冊〉
1956 『日本の映画』
1969 『黒沢明の世界』
1971 『小津安二郎の芸術』
1974 『大島渚の世界』
1975 『長谷川伸論』
1980 『今村昌平の世界』
1982 『溝口健二の世界』
1985 『キネマと砲聲 日中映画前史』
1993 『アジア映画』
1995 『日本映画史(全4巻)』
1995~96『世界映画史(上・下)』
佐藤さんの故郷、青春の地、新潟
アジア映画を探して、アジアフォーカスの仲間たちと
福岡市総合図書館のフィルム収蔵庫、佐藤の選んだフィルムが保管されている。
日本映画大学にて、「日本映画史」の講義(2019年撮影)
中国からの留学生と
佐藤と同時期にアジア映画を発掘していた石坂建治学部長
彼を突き動かすものは何か、それを知りたい
2019年初夏、89歳の佐藤忠男は、アジア映画の探訪記を書いていた。
「頼まれた仕事ではないが、残しておきたいから」
無表情で怖い印象、しかし妻の久子さんへの純真な思いを語るときの笑顔に惹かれた。
そうして、佐藤さんとの時間=撮影が始まった。
屈辱、憧れ、出会い、愛情そして別れ
戦中の少年期に味わった屈辱、戦後のカルチャーショックと同時に植え付けられた憧れ、妻・久子さんへの想い、夫婦で歩む道。そして久子さんの死。
妻の久子と
アジアとの出会いと贖罪の旅
日本映画大学の中国人留学生、佐藤さんと知られざる“中国映画”を発見した研究者、台湾の評論家との出会いから、私の眼は自然とアジアへと向かう。アジアフォーカス・福岡国際映画祭、そして、「恨(ハン)」という韓国人特有の感情を描き続け、佐藤さんに敬愛された林権澤(イム・グォンテク)監督を訪ねて韓国へ、佐藤さんを追体験する旅は続いた。
左から、林権澤監督、釜山国際映画祭創設者の金東虎(キム・ドンホ)さん
李長鎬(イ・ジャンホ)監督
裵昶浩(ペ・チャンホ)監督
左から、妻の久子、ペ・チャンホ監督、佐藤忠男、松岡環(インド映画研究)
韓国語に翻訳された佐藤の著書
映画研究家のチョン・ヨンタク教授
朴鐘元(パク・チョンウォン)監督
インドへの旅
佐藤が生涯で見た映画は、1万本を下らない。「世界で一番大好きな映画は」と言い残して、佐藤は逝った。それは、インドの南西端に位置するケーララ州で作られた一本の映画。
なぜ、この映画なのか?
この映画の魅力は一体何か?
私はその謎を追って、旅を続けた。
インド・ケーララ州へ
〈スタッフ紹介〉
プロデューサー:川井田博幸(グループ現代)
監督:寺崎みずほ(グループ現代)
撮影:大久保千津奈(JSC)
録音:姫井信二
編集:遠山慎二
〈グループ現代の映画制作歴〉
1967年『農薬禍』
1981年『沙の村』
1986年『大日向村の46年 満州移民・その後の人々』
1997年『SAWADA 青森からベトナムへ ピュリッツァー賞カメラマン沢田教一の生と死』
1998年『自然農 川口由一の世界 1995年の記録』
2001年『センス・オブ・ワンダー レイチェル・カーソンの贈り物』
2003年『ヒバクシャ - 世界の終わりに』
2010年『月あかりの下で』
2011年『医す者として』
2016年『まなぶ 通信制中学60年の空白を越えて』
2023年『うつろいの時をまとう』
〈監督プロフィール紹介〉
寺崎みずほ
1985年神奈川県川崎市生まれ。大学卒業後、日本映画学校入学、映像ジャーナルコースに進む。卒業後、グループ現代入社。NHKの番組や文化庁の記録映画などのアシスタントを経て、
NHK「極私的ドキュメンタリーにっぽんリアル」で初演出。その後は主にNHK Eテレで介護や料理の番組を演出。長編映画の監督は今回が初。
右・監督の寺崎
2019年から撮影を始めたこの映画はその後、佐藤忠男の仕事を追い求め、国内は東京、神奈川、新潟、福岡、海外は韓国、インドロケを敢行。
撮影と同時に制作資金集めも始め、多くの方々より、製作費を援助いただくことができました。また助成金も申請。
それにより、これまでのロケ費用等は、弊社資金と合わせて賄い、現在に至ります。
これまでご支援頂いた方々に感謝申し上げます。
ではなぜ、このタイミングでクラウドファンディングをするのかと、疑問に思われる方もいらっしゃると思います。
それは、仕上げ作業の費用が、まだ不足しているからです。
現在、撮影をほぼ終えて、編集作業をしています。映像が固まったら、スタジオに入り、映像の色調整や整音、全体の音楽設計などが始まります。また、今回は、佐藤さんと交流のあった国や映画祭にも出品をする予定です。そのために英語版作成の費用や、宣伝費などを含めるとあと600万円が必要になります。
従って、今回のクラウドファンディングでは、不足分として200万円の、援助を募ることにいたしました。
以下、資金の具体的な内訳です。
スケジュール
撮影 2024年9月まで
編集/仕上げ 2024年9月〜12月 *編集準備期間含む
完成時期 2025年1月
劇場公開 2025年夏
〈展開イメージ〉
★佐藤忠男さんゆかりの地での上映
佐藤さんの長年の活動の場となった東京、川崎はもちろん、出身地である新潟、
映画祭ディレクターを務めたアジアフォーカス・福岡国際映画祭の主催地、福岡を
この映画の応援拠点地として、盛り上げたい。
★各映画祭への出品
英語版を作成する理由がこちらになります。
佐藤さん所縁の釜山国際映画祭、ケララ国際映画祭、ハワイ国際映画祭など、
アジアをはじめとした、各国映画祭へ出品をし、映画評論家の存在を改めて考え、
ディスカッションする場を設けたい。
〈各映画祭スケジュール〉
釜山国際映画祭 2025年10月
ドキュメンタリー&短編ケララ国際映画祭 2025年初夏
ハワイ国際映画祭2025年10月or11月
★自主上映会
グループ現代は、元来は自主製作し、自主上映を基本としてスタートした会社です。
国内の映画館上映を終了後、映画館がない地域の方々にも本作品を見ていただくために、
自主上映を企画する団体と連携し、全国的なネットワークを築きます。
上映会とは…「映画を通してコミュニケーションを図る場」
どなたでも企画することができます。
公民館やカフェなど、映画館以外で映画を上映し、
鑑賞後は集まった人たちでディスカッションなどをします。
上映方法について
グループ現代より上映用DVDまたはBlu-rayのお貸出しはもちろん
上映機材がない団体さまへの機材貸出しも対応しています!
上映会の人数は5~100名ほどと、企画によってさまざまです。
入場料の有無やゲストトーク、物販、上映会チラシなども、
弊社上映スタッフと相談して進めていきます。
過去の自主上映会の様子~鑑賞後の監督トークセッション~
★ ☆★☆★☆インターネットでの操作などが難しい方へ☆★☆★☆★☆
インターネット上でクラウドファンディング操作などが難しい場合、
グループ現代の銀行口座に直接振り込む方法もございます。
お問い合わせください。
グループ現代 03ー3341ー2863(川井田、寺崎)
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目標金額を達成できなかった場合、自費や別の形で製作費を補填することになります。
そのためにやや作業が遅れる可能性もありますが、不足分は自費で補填するなどして作品を完成させます。また、未達でもリターンをお届けしますのでご安心ください。
映画は2025年1月完成、以降完成試写会を目指しています。
編集の都合により、場合によっては遅れる可能性もあります。また、映画が無事に完成しても、映画館の事情により、リターンのお品をお届けする時期が遅れる可能性が出てきます。こういったことが、リスクとして挙げられます。
遅れが生じる場合は随時アップロードにて進捗をご報告いたします。
今回、目標金額を達成できた場合、また早い段階で達成の見込みがたった場合、
音楽制作やスタジオ作業などに、心おきなくとりかかることができます。
共にこの映画をつくる人たちの環境を整え、結果として映画がより良いものになると考えます。
私は日本映画学校の学生時代、当時学長を務めていた佐藤忠男さんの授業を受けていました。「日本映画史」と「映画史概論」です。
「日本映画史」で特に印象に残っている映画は小津安二郎監督の
『生れてはみたけれど』。
小学生の兄弟が主役の無声映画で、私は初見でした。
この映画がなぜ印象的だったのか。こども時代の記憶・感情がぱっと浮かんできたからです。悔しくて言い返せない、非常にもどかしい気持ち。大人や優等生の言う理屈は分かるけど、どこか違う気がする。矛盾しているのに、言い返すことができない。
この映画を見たとき、私は二つの自分を見つけました。
こども時代の無垢な感情がまだ自分の中に残っていること。
20歳を過ぎている自分には、主役の兄弟に痛いところを突かれている、父親の気持ちにも、覚えがあること。
この相反する感情は、40歳を目前にした今も私の中に存在しています。
そういう場面に出くわすと、いまだに上手に言えなくなる時もあります。
私が取材を始めたころ、当時89歳だった佐藤さんの心の中には、戦時下に暮らしたこども時代に味わった、さらに激しい屈辱、大人への反発心が残っていたように思います。
エピソードは省きますが、この
反骨精神が、「佐藤忠男」に枯れることのない探求心と情熱を持たせ、映画の伝道師となり、それにより誰よりもピュアな映画少年でいることができたのではないかと思います。
そして、今回のドキュメンタリー映画でわたしたちが探し求めた、佐藤忠男が最高の一本に選んだ映画の中にも、同じような反骨精神と純粋さを見ることができると思います。
映画は私たちに何を見せてくれるのか。映画の伝道師として、60年以上にわたり、その人生をかけて尽力した「佐藤忠男」の存在を改めて考えたいと思います。
佐藤さんの夢は、「映画の世界地図」を作ることでした。夢半ばで佐藤さんは逝きましたが、
そのバトンを受け取り、つなぐのは同じく映画を愛する私たちだと思います。
どうぞご支援ご協力のほど、よろしくお願いいたします。 寺崎みずほ
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