一人目の灯り ベース「伊賀航」
vol. 1 2020-05-18 0
伊賀さんからのメールで、本当にCDデビューするんだという実感が湧いた。
2007年初冬、当時働いていた池袋のコールセンターで、一心不乱に電話をかけていた僕のポケットの中のガラケーが震えた。
確か、「笹倉くん、惣一朗さんから聞きました。録音楽しみにしています。」
こんな感じの短いメールだった。
プロデューサーの鈴木惣一朗さんにCDデビューの施しを受けることになり、録音のスケジュールが出始める頃だった。
入間の米軍ハウスに住み始めたばかりの僕は、月に何度か、東京や埼玉でライブをしてるくらいで、あとはデモテープ作りに励んでいた。
今みたいに、すぐに発信するという発想はなく、作った作品の行くあても知らないまま、、乙女的に言えば、白馬の王子さまが現れるまで、じっと身だしなみを整えるような、そんな毎日を送っていた。
CDデビューの話が舞い込んでからも、いまいち実感がなく、本当にそんな夢見たいなことってあるのだろうかと思っていた。
伊賀さんからのメールはそんな白昼夢から、僕を呼び覚ましてくれるような、ほっぺたをつねられるような、嬉しいものだった。
伊賀さんとの出会いは、曽我部さんの店、下北沢のCCCだ。
SSWの関美彦さんに作詞を依頼されていて、その曲の録音がCCCで行われるのだというので、歌い回しなど細かいところを伝えようと、僕も録音に立ち会った。
その時のベースが伊賀さんだった。
僕は当時、静岡の実家に一時帰省中で、音楽ソフトProToolsで録音を始めたばかりで、その数ヶ月後に入間に移った。
下北沢の街は、もう随分変わってしまったけど、当時の下北沢というのは憧れの街だった。
ビレバンへ入る時はなんだかドキドキしたし、今もよく行くトロワシャンブルでライブ前の時間を過ごした。その日も多分、CCCへ行く前に僕はトロワへ行っていたと思う。
録音中、伊賀さんの横顔が長い髪で隠れていた。
ここしばらくはずっと、伊賀さんは髪が短いので、思い出そうにも、やっぱり長い髪が邪魔をして上手く思い出せない。
僕のガラケーにはその時の写真が入っているはずなんだけど。ガラケーも捨てた記憶は無いので、どこかにあるはず。
さて、入間に越してからしばらくして、関さんが録音をしにやってきた。
もちろん伊賀さんも一緒だった。
僕が初めてプロのベーシストの録音ボタンを押したのは伊賀さんで、その後も数えきれないテイクを見てきている。
あの頃、伊賀さんのプレイに触れられたことは、僕にとっての財産だ。
その意味の大きさを、年を重ねるほどに感じている。
その当時の僕にとって、伊賀さんはスポットライトの向こう側の人だった。
でも入間で録音ボタンを押すたびに、伊賀航という人となりが、REC中のヘッドフォンから僕に伝わってきて嬉しかった。
あの日、珍しく伊賀さんからメールが来て、僕はコールセンターのデスクの下で携帯を開いた。
これから始まる物語に胸が高鳴って、小さくガッツポーズをしていたかもしれない。
西武池袋線の暗闇を行く時間が、僕のイマジネーションの源だったころの話。
2020年4月「はじまりの灯り」の弾き語りを送ったら、すぐにベースの音が送られてきた。
PCの中で重ねてみると、まるで一緒に演奏したみたいだった。
こうして欲しい、とか、
ここをもっと、とか、
そういう言葉が必要ないのは、伊賀さんがすごいってことは言わずもがな、あと、僕たちが重ねてきた時間のおかげだと思う。
僕がギターを弾く時、
親指が弦を掴む感じや、左手が指板を抑える時のホールドの感覚だったりも、
伊賀さんのモーションのイメージに支えられていると思う。
ジェイムス・テイラーよりも、伊賀航のベースランが僕のリアルな体験だ。
沢山の古い音楽を聴いて、
その音に近ずきたくて録音を始めたけれど、
やっぱり生で触れないと、知れない肌触りがある。
僕はguzuriに来るミュージシャンの生の音で育ててもらった。
伊賀さんは、僕の録音人生では一人目の「はじまりの灯り」だと思う。
伊賀航
宮城県出身。高校生の時にベースを始める。大学在学中より設計事務所に入社(2級建築士)。96年上京後、日本語によるソウル・バンド「benzo」に加入。バンド活動に専念することを決意し設計事務所を退社。98年、シングル「抱きしめたい」、アルバム「benzoの場合」でメジャーデビュー。2011年、バンド活動休止。
現在は、細野晴臣、星野源、曽我部恵一、おおはた雄一、寺尾紗穂、イノトモなど様々なミュージシャンのサポート・ベーシストとして活躍中。また、長久保寛之(g),北山ゆう子(d)らとともに、バンド「lake」としても活動している。
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