プロジェクトマネージャー日記#5~3月11日の体験~
vol. 47 2015-03-11 0
こんばんは。プロジェクトマネージャーの野村です。
今日は3.11映画祭や「☆南三陸night☆」などを終えた監督と仙台でミーティングをして今後の段取りなどを確認してきました。仙台は帰り際に小雪が舞う天気でしたが、自宅に向かうと途中から景色が白くなりはじめ、帰ったらいきなりの吹雪です!おかげで帰宅が遅くなりました。そして更新も遅れて日付が変わって3月11日ですm(_ _)m
4年前のあの日は、仕事が秋田勤務でしたのでそこで被災しました。今日はその体験でもお話しようかと。
あの日、事務所で仕事をしていたところ、けたたましく緊急地震速報(誰もそうだとは思わなかったのですけど)が鳴ります。しかも20数人が仕事するフロアで、隣の課長のところだけ。(てっきり目覚ましの掛け違えかとも思った)課長自身もよく分からず「おうなんだ!」といっている間に横揺れが来る。震源域から遠い秋田は、実にゆっくりと波に揺られる船上のように揺さぶられます。最初は小さく、それが徐々に大きくなり、隣の自動車販売店の車、電柱の電線も大きく揺さぶられている。これはまずいとお客を外に避難させようと立ち上がると同時ぐらいに電気が落ちます。小雪の舞う外にお客を誘導して揺れが収まるのを待つ。ピークが過ぎたと思ってもまた揺れる…。
かろうじて家具の転倒や物の落下はなく横揺れが収まると、課長から「宮城県北部震度7」の一報が入る訳です。ラジオは津波警報と港湾の浸水する緊迫した状況を流し続けるのですが、大崎市に実家のある私はそれどころではありません。震度7といえば阪神淡路大震災。累々と建物が倒壊した姿を思い浮かべれば、気が気ではありません。けど、家に帰っての安否確認が必要ない私は事務所に待機要員として残りました。そこで携帯をかけ続けますがは全くつながらない、1人また1人、そして友人を通して聞くなど少しずつ情報を集め、最終的に家族全員の安否が確認できたのは午後7時を過ぎていました。
秋田市では地震による停電や断水の影響は最長で2日~3日ほど続きましたが、私の住む地区は比較的早く翌朝には復旧しました。 一夜だけの停電中はかろうじてガスと水道はつかえたので、暖かいものを食べて布団で寒さをしのぎました。けど周辺ではやはり車中泊の人が多かったようです。品不足やガソリン不足による行列はその後しばらく続きましたが…。
電気がつくと津波での甚大な被害の情報が入ります。それはより一層不安にさせるものでした。 「仙台市若林区荒浜で200~300の遺体」というYahooニュースの第2報ぐらいの情報に愕然とするのです。あとはしばらく同じフレーズだけが繰り返される。そして南三陸町についての第1報は、1日から2日経ってからだったように記憶していますが「町長含め1万人が行方不明」というものでした。この衝撃もものすごかったです。完全に連絡が途絶し、情報がない状況の第1報はどれも行方不明、安否不明だけ…、はじめのうちはその事実の報道すら行われていなかったのです。メディアも政府も安否が分からないという状況、知っている町、知っている人のことが分からない不安計り知れないものがありました。
地震の1日よりもむしろ衝撃的なニュースが続々と入るここからが長い…実に長い。 私のこれまでの人生にとって一番長い日のスタートと言えるものでした。