『波伝谷に生きる人びと』の舞台を知る⑤~陸のなりわい~
vol. 21 2015-02-12 0
こんばんは。プロジェクトマネージャーの野村です。
昨日は諸事情により更新できず大変申し訳ありませんでしたm(_ _)m
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今日は『波伝谷に生きる人びと』の舞台を知るの5回目、前回ご紹介した海に対して陸のなりわいです。
前回ご紹介したとおり、波伝谷の主産業は漁業ですが、それは昭和30年代以降のことです。それまでは養蚕や炭焼きが主要な産業であり、合せて農業も行うなど陸の自然を活かしたなりわいも盛んでした。今日はそうした陸のなりわいについて見ていきたいと思います。
志津川町の山間にある入谷地区は仙台藩有数の養蚕が盛んな地域として知られ、波伝谷でも養蚕が古くから行われていました。養蚕は平地が少なく田畑が限られ、漁業収入も大きくなかった当時の波伝谷では重要な収入源であり、波伝谷では蚕のことを「オゴサマ」と様をつけて呼ぶほどです。しかし昭和30年代以降化学繊維などによって繭価格が下がりはじめ、波伝谷では昭和50年代には行われなくなりました。しかし、震災前には養蚕のために建てた母屋や桑畑をいたるところに見ることができ、その名残を留めていたそうです。
また戸倉半島の中央部は山が連なっており、山林は海近くまで迫っています。かつては、その豊かな山林を活用して林業や炭焼きが行われ、特に炭焼きは農閑期の副業として養蚕と並ぶ主要な産業でもありました。しかし、そんな炭焼きも化石燃料の普及とともに昭和50年頃には行われなくなりました。また山の木は薪炭の他、建築用材としても活用されました。
こうした生業とともにたいていの家は田畑を持ち農業も兼業していました。海と山に挟まれ平地の少ない波伝谷ですが、集落内には家々とともに田んぼや畑がいたるところに見られ、人びとは漁の合間に田んぼや畑に通って農作業をしていました。
海のある波伝谷はつい漁業ばかりに目がいきがちですが、過去を遡り、景色をよく見ると意外と陸のなりわいも行われていたことに気づかされます。波伝谷には豊かな海とともに豊かな山があり、限られた土地と自然を活かし、うまく調和させながら生活してきたのです。
(参考資料『波伝谷の民俗ー宮城県南三陸沿岸の村落における暮らしの諸相ー』)