4月24日(月)「会田誠の月イチぼったくりBAR」特別番外編 レポート(後編))
vol. 15 2017-05-09 0
その後はいよいよ本日のもうひとつの目玉、2年間、スペインでピカソの研究をされていて、2週間前に帰国したばかりという松田健児さん(慶応大准教授・スペイン美術史専攻)による本邦初公開の新研究発表もあるミニ「ゲルニカ講座」です。
▲根本敬さんも愛読した松田さんの著書。ピカソの変遷がコンパクトにまとめられていて、概説をつかむのに最適。
まずは「ゲルニカは本来は反戦の絵ではない」というテーマから。1937年のパリ万博のためにピカソがゲルニカを描いた際の意図は「ファシズムと戦うための武器」としての絵だったのが、第二次世界大戦中に「ファシズム批判」へと意味が変わり、ベトナム戦争時に「反戦絵画」として受け止められるようになった。さらに日本では東京大空襲や原爆などと重ねて見てしまうことで「反戦」というイメージが強い。と、ゲルニカ制作の歴史的背景から、その後のゲルニカそのものの流転を追うなかで、“芸術作品が持つ意味は時代や社会によって変化していく”ことを読み解いていきます。
▲ゲルニカのためのスケッチ
ピカソはスケッチや制作中の定点観測など、「ゲルニカ」の制作過程を細かく記録していたため、そのなかで絵がどのように変化していったかがよくわかるそうです。たとえば最初の頃のスケッチに見られる拳を握って高く上げた腕の絵。これは左翼のポーズで、そのことから当初ピカソがこの絵に「ファシズムとの戦い」という意味を込めていたことがわかる。けれど、制作を進めるうちに政治的なモチーフはどんどん減り、描かれるのは被害者の姿のみになっていった。こうして意味を削って抽象化していったことで、「ゲルニカ」は広く世界で受け入れられたのではないか、と。
また、ピカソは「ゲルニカ」をひとつひとつのモチーフごとに描いていき、全体を描きながらそれらのモチーフを変化させたり動かしたりして構成を変えていった。これは漫画の構成にも似ているのではないか、といったお話も。
そして後半のテーマは「ピカソとわれわれ(日本人)」。ピカソのジャポニズムについて、松田さん独自の視点で研究成果が語られます。「ゲルニカ」にも見られる折り紙や浮世絵の影響など興味深い内容でしたが、こちらは今後、松田さんが論文などで発表されていくお話なので、詳しくは省略。
▲ピカソと北斎と会田誠を並べてみる
冒頭で「普段は研究者や大学・美術館関係者などいわゆる専門家相手に話すことが多く、一般の人−−こういう正体不明な人たちに(笑)、お話する機会は滅多にないので、伝わるかどうか心配です」と仰っていた松田さん。しかし、わざわざ今回の企画のために構成してくださった「《ゲルニカ》をめぐって」の丁寧なお話は、一般の我々にも十分わかりやすいものでした。
そして会の最後は、おにぎりになる予定が炊飯器の不調によりできてしまった16合分のおかゆで締め。ごちそうさまでした。まったく“ぼったくり”ではない充実した3時間でした。
▲ゆかり(みんな大好き!)やキムチ、昆布など「おかゆの友」もぬかりなく準備されていました。
(岩根彰子)