帰国後対談・第1回[亀井岳×高橋琢哉]後編
vol. 25 2017-09-27 0
亀井:物やお金の流通、電気がない事で思い出せば、冷蔵庫がもちろんないから、小さい町では、その日の食料はその日に運ばれ来て市場に並ぶし、川や海に行った人が桶やカゴに魚に運んでいるのを、呼びとめて買ったりもする。朝、明るくなる頃、豚がしめられるもの凄い雄叫びでみんな起こされたり。トイレに行くために外に出たら、土の上に血の池があったりとかね。
高橋:その叫び声を聞いて小野里さんが「ちょっと撮ってくるわ」ってまだ真っ暗なうちから外出て行って(笑)そういうことはざらにありましたね。
亀井:そういうのもよかったですよね。
高橋:牛もつぶしたでしょ。映画のワンシーンとしても必要で。彼らは手慣れたもんで、僕は横で見てただけだけど忘れられない光景はいくつかありましたね。鼻つらを足でグーって踏みつけて延髄を斧で切るとことか。インドネシアのトラジャ族って葬儀礼でもの凄い数の水牛を潰す民族で有名なんですけど、頭骨っていうのがとても大事にされるんですよね。家の入り口の柱に、その家が潰した牛の頭骨がずらーっと掲げてある。その牛の頭骨って猛々しさ、神々しさというのがあって、マダガスカルでも牛の頭の骨は飾られたりしてましたね。屋根の上とかに。
亀井:そうですね。
高橋:今回いわゆる民族学的なフィールドワークではなかったので、あまりそこらへんは深入りしなかったけど、その分、亀井さんが言うような飾らない彼らの日常、言い方変えれば古い生活や伝統は、既に失われてしまっているともいえるんだけど、その一部がうっすら残っている感じが、いろんなところにあったと思う。それをぼくが一番感じたのは、演説みたいなやつですね。
亀井:どこでみたやつですか?
高橋:牛のときにもそうだったし。長老たちがヒレ肉を僕らのところのに持って来て、車座になって「あなた方がなんとかかんとかでー」とかって言うでしょ。僕らは言葉はわからないけど座って、ニコラが「皆さまのおかげで滞りなくできまして」とか返すみたいな。なんというか、任侠映画なんかで「おひかえなすって」って仁義切るのとかと同じ、いわゆる型というか。そういうのをぼくはマダガスカルでけっこう感じました。型がある。音楽もそうで。型があってその中でコミュニケーションをとる人たち、という感じは凄いありましたね。
亀井:なるほどね。
高橋:けっこう古いものなんだと思いますルーツ的には。マダガスカルとして古いというより、人間の文化として。音楽のフレーズがメロディーが、ということ以上に、そういうところが記憶に残りましたね。不思議なもんだなーって。
亀井:おそらく個人を超えたものというか、個人を超えた歴史であったり文化に触れる瞬間でしょうか。たとえば、レマニンジというミュージシャンが煙草売りとして出てくる。実際に煙草売りですけど。それこそ寅さんみたいに、辻で啖呵を切りながら煙草を売るんですけど、なかなか良くて。僕らの想像を超えるシーンになりました。こんな姿も、いずれなくなってしまうでしょうから、映画の中におさめられて幸福だなと思いますね。
高橋:市場の物売りの声とかよりも、もうちょっと古い文化というか。そこに集まった人たちも、プロの観客というかね、ちゃちゃの入れ方も堂に入ったもんで。「ほんとにうまいのか」とか「一口吸わせてもらわないとわかんねえな」とかいうでしょ、丁々発止のやりとりを。
亀井:それがありますね。
高橋:あれも型なんだと思います。
亀井:そうなんですよね。その役の人物がスッと自然に出てくるというか。
高橋:感情が後押しして言葉が出てくるというよりは、「あ、ここはこういうことを言う場面だ」みたいなことは何度もあった気がする。そういうのって、例えば西洋的な言い方で子供に「もっと自由に絵を描きなさい」みたいに言うようなものとは違うタイプの自由ですよね。そういうのは凄く感じました。音楽もそうだった。だって言ってしまえば、同じことしかしないんですもん。技術的には同じことを毎回やってるけど、音楽で行ける”場所”は毎回ぜんぜん違うーというか。そういうところが僕が一番好きだったとこかな。ザカとかスルが演奏する “マンガリバ” なんて、もしCDにしようとしたら数曲で済んでしまう。でも彼らはあれだけで何年間も音楽をやれて、たぶん毎回新鮮なんだろうなというのは、ステージだけが音楽の場所じゃないからですかね。それはやっぱり……そうだ、忘れてましたけど、型っていうことは向こうにいる間に何度もメモしました。人と人が出会ったり話したりすることに型がある、そういう感じとか。結構最初の頃から思っていて、牛を潰した時のが決定的でしたね。前から亀井さんからマダガスカルには演説の文化があると聞いていて、そんなもんかぐらいには思っていたけど。
亀井:結局、儀礼の時には形式がハッキリ見れらるけれど、日常でその手がかりには掴みにくい。
高橋:儀礼って日本でもそういう型があるじゃないですか。たぶん世界的にありますよね。それが生きてない、というか、形だけ伝わるようになると「なんでそんなことやらなきゃいけないの」ってなったりするんだけど、形骸化というか。そういう意味ではマダガスカルは全然違いましたね。堅苦しいものでもなくて、なんか不思議な雰囲気の会話みたいな。別に言う事たいして決まってないでしょ?祝詞をあげるみたいには。
亀井:なんかあるとは思うんですよ。全部が自由という訳ではないと思います、ある程度決まったことをしゃべってる。相手を褒めることであったり、そういう形式はあるでしょうね。
高橋:亀井さんはアフリカは行った事あるんですか?
亀井:ケニアにちょっと行ったことがあるだけで、そこまで深く文化に触れていなくて。
高橋:ケニアとマダガスカルでなにか共通するものはありますか?
亀井:全然ないですよね。ケニアとマダガスカルが近かった、ということはほとんどない。
高橋:日本とマダガスカルが違うように…
亀井:マダガスカルは、だいぶ違うかな。
高橋:僕は、マダガスカルらしさみたいなのを掴みかねているところがあるんですね、おそらく。なんでもかんでも理解したうえで、音楽や映画を作ったりできないのは重々承知しているつもりですが、まだ自分の中で整理している状態なのかな。
高橋:亀井さんは8回くらいマダガスカル行ってるんですよね。これがマダガスカルか、と思った決定的な事って過去にありましたか? 忘れられない何かとか。
亀井:やはり、今回の映画の発端となった、箱に入れた遺骸を運ぶ人たちに会った事が、自分にとっては忘れられない出来事でした。
高橋:彼らは話しかけたら普通に話してくれるんですか?
亀井:そうですね。厳かにとかということでもなく、別に普通に運んでますよと。今日も運んでますよと(笑)
高橋:でも今回、映画撮っている間で一番難しかった事ってそこじゃないですか。
亀井:そうなんですよね。
高橋:彼らは実際に運んでいて、僕らのようなトラブルにあってるんでしょうか?
亀井:あってないですよ。彼らはちゃんとした正統な骨を運んでいて、身元も明らかなんで。僕らは、あきらかに不自然な事をしてるじゃないですか(笑)だから説明がつきにくいでしょ。
高橋:話を説明しても、向こうがピンと来る部分が少ない。そもそも"映画"というものから説明しないといけない。
亀井:理解しにくい。だから難しかったんだと思いますよ。
高橋:撮影のときに、骨の箱を持ってこの村を通るんだったら、牛の一頭ぐらい潰して清めないとダメだとか言われたこともあったじゃないですか。ああいう扱いはないんですかね。
亀井:それはないですよ。ちゃんと出所があるからかなぁ。
高橋:そういうのもわかったような、わからないような。
亀井:結局、亡骸というか、祖先になる人の背景がわかっているでしょ。出自というか。僕らは映画の撮影で、そのフリをして、箱も持っている。「それはなんだ」と言われたら、「フリだけで遺骸は無い、実は模型が入っている」と。そんなことは彼らにしたらイリーガルですからね。その不吉さというか、異質さというか。
高橋:そのへんがいちばん難しかったことで、逆に言うと一番深いところに触れられたともいえるし。
亀井:制作自体がね。この部分の話というのはなかなかしにくいし、映画をただ単純に作りたかったら別にする必要もない体験で。
高橋:まさに、亀井さんが今言った事って、結構いろんなことに関わっていると思います。つまり、冒頭に言った、なんちゃらの精霊とか、かつてあったかもしれない国、みたいな根無し草のファンタジーを撮るんだったら体験する必要もない、なんなら儀礼だって空想で撮ればいいわけですよね。でも今回の映画はそういうことは避けた。かといって、実際に骨を運ぶ人を追いかけたドキュメンタリーでもないというあたりに、この映画の本当に大事な足場があるような気がしてるんです。それをまだ掴みきれていない、僕がね。そのあたりがずっと考え続けていることかも。
亀井:映画の中で見えない部分だろうけども、現地に入ることでリアリティとしてわかるものがたくさんあって、そのまま出すと生々しいんだけども、そういうものに裏打ちされて、はじめて物語が成立するように思う。今回は劇映画、効率優先の撮影になってしまったので。本当はもっと寄り道のようなことをいっぱいしてもらいしつつ、その側面も見てもらいたいというところがあったんですが、それはまた今度。お忍で(笑)撮るもんはとって来たんで。
高橋:結局、この映画がどういう映画なのかということーそれは僕らが共通でイメージを持つもためのものであるし、見てほしいと思う人たちに伝える入り口でもあるのかなという気はしているんですよね。
亀井:そうですね。ぜひそこは期待してみなさんに待っておいてもらえればと思いますね。
高橋:見てもらえる頃には僕も、もうちょっとわかんない感じをなんとかしておきたいと思うし
亀井:この対談を聞いたら逆に不安になる人も多少いるかもしれないですね(笑)
高橋:いいんじゃないですか。宣伝のためではないというか、まわりまわればそうやって映画を作ったんだろうなって話だと思うので。
そういえば、ヤン・シュヴァンクマイエルがファウストって映画を撮った時は大変だったらしいですよ。不吉な事が起こりすぎて(笑)得体の知れない事件がさんざん起こって、そこは本気で悩んで時間かかったらしいです。題材がヤバかったかって(笑)
亀井:僕らも、いろんな虫とか小動物にやられましたけどね。
高橋:僕はよくわからない裂傷とかにもやられましたけど
亀井:なんとか乗り越えてきましたので。
最後に
高橋:マダガスカルという土地や時間そのものの中にある、生活の中にいては見えないものの由来、もしくは見えただけでは当たり前過ぎて何なのかも全くわからないものの背景。おそらくそんな何かがこの映画の本当のテーマなのかもしれない、と1カ月の旅と撮影を終えておぼろげに感じるようになりました。このあっけらかんと横たわっている巨体のような問いにこれからどんな風に踏み込んで行けるか、と思うとゾクゾクします。映画にするための別の旅がもうすぐ始まる。いやー考えただけでたいへん過ぎて幸福です。ぜひ今後とも応援よろしくお願いします。
亀井:撮影中も今も、これがいいのかどうかなんて、まったくわかってなくて、自分の力を出し切ることだけで、はっきり言って他は何も見えてません。ただ、これからがっぷりと取りかかるものがそこに横たわっていることははっきりわかっているので、今から全力で取り組みます。待っていてください。