見棄てられたコリアン被爆者の映像を復元したい
vol. 11 2019-12-07 0
応援をいただいた皆様ありがとうございます。
今、復元しようとしているフィルムには、広島、長崎で原爆被爆した韓国・朝鮮人被害者が多数収録されています。朴監督のデビュー作(1986年)『もうひとつのヒロシマ』には16名の被爆者が登場していますが、一本の映画には収めきれなかった被爆者の貴重な映像です。
日本の朝鮮植民地支配の結果、広島、長崎で7万もの朝鮮人が原爆被害を受けました。強制連行による徴用や学徒動員、そして徴兵など軍都広島、長崎の苦役に繋がれ被爆した人々です。生き残った3万人のうち2万3千人が、独立を果たした祖国に帰っていきました。
1965年、日本と韓国政府は日韓協定を締結しますが被爆者、「従軍慰安婦」の存在は隠蔽されたままの政治決着であり在韓被爆者は対日補償請求の声を上げます。しかし、日本政府は、補償はおろか、被爆者援護のための法律(現行法は「被爆者援護法」)を適用することさえも拒否しました。
朴監督が広島で朝鮮人被爆者の聞き取りを始めたのは1964年からでした。日本政府にも韓国政府にも見棄てられ、治療費用も生活補償もないー。祖国に帰ることができず広島の原爆スラムで身を寄せ合い、貧困と原爆症の病苦、民族差別・・・二重三重の「差別」の中を生きる在日一世と出会っていきます。
広島への最初の旅は沈黙との出会いでした
朴監督が振り返ります。
「広島への最初の旅は沈黙との出会いでした。朝鮮人は確かにいる、しかし、被爆者としてはどこにも存在しない。本当に貧しい原爆スラムに暮らす現実にありながらなお、被爆体験については口をつぐんでいた。彼らは全く問題にされていなかった。そういう棄民された人たちに光をあてたい、そう思いました。私は原爆スラムの被爆者の家に寄宿し、そこのハルモニと一緒に地下たびを履き、失対(失業対策)の現場を回って、一人一人被爆者を掘り起こし、話を聞くことをしたのです。
広島でも、どの炭鉱でも、あの時代に日本の政策に加担していった朝鮮人は、実に見事な日本語で、いかに自分たちがひどい目にあったかを饒舌に語ります。彼自身の自己批判や戦争責任は一切なくです。ところが実際に最も苦しんだ同胞たちは、日本語はヘタで、朝鮮語も素朴で、語る言葉を持っていない。そういう人たちの沈黙をきくという作業をやったのですが、彼らが訥々と語る時の表情とか沈黙、これがすごいんです。皺にたたき込まれた瞼の奥の目に、青く鬼火のようなものが燃えるんです。私は恨ーハンーだと思いました。無念の思い、それが目の奥に燃えるんです。そういう沈黙に出会ったことが、なにより映画を作りたいという契機になりました。」
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20年あまり、朴監督は聞き取り調査を続け、1985年に本格的に映画撮影を開始します。翌年完成した『もうひとつのヒロシマ−アリランのうた』は全国の市民によって300箇所以上で上映され大きな反響を呼びました。
朴監督は1990年には韓国に渡り、ソウルや陜川(ハプチョン)で暮らす被爆者たちを訪ねカメラに収めました。韓国国内での被爆者への偏見・差別は深く、救済を求めている切実な姿です。
その方々もすでに亡くなりました。国境を超えて核の恐ろしさを伝え、核廃絶を今こそ訴えなくてはならない、と朴監督は思いをつのらせます。
残り6日となりました!応援の数だけデジタル化できるフィルムの量が増えます。在日・在韓被爆者たちの未公開のフィルムを皆様のお力をかりて蘇らせたいと思います。
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アリランのうた製作委員会