清澄白河はこんなところです「地域の歴史編」
vol. 1 2015-11-20 0
応援ありがとうございます。日本仕事百貨のナカムラケンタです。
「デコ屋台」プロジェクトも残り15日となりました。
最終日である12月4日(金)は、工事前のリトルトーキョーをお披露目するイベント「新リトルトーキョーナイト」を行います。「ナイト」なんですが、12時からオープンして、24時までやっています。ゲストをお呼びして、トークショーもやろうと考えがえています。
簡単な食事やお酒なども用意していますし、はじめて新リトルトーキョーを公開する機会ですので、お気軽に遊びにいらしてください。
デコ屋台のデザインも進んでいますが、今回はデコ屋台の舞台となる清澄白河について紹介します。
清澄白河の歴史
まず清澄白河駅について。
この駅ができたのは2000年のことです。大江戸線の全面開通により誕生し、さらに2003年に半蔵門線がこの場所まで延伸されました。
そんな「新しい街」のイメージもある清澄白河。歴史を振り返ってみると実に面白い場所であることがわかります。
もともとは海の底だった
さかのぼること400年。江戸時代以前は小さな島が広がる河口のデルタ地域でした。亀島(亀戸)、大島、宝六島(北砂・南砂)、永代島、越中島、佃島などのような島が点在する場所だったようです。
そんな人家もない場所へ、天正から文禄(1572〜1595)に移り住んだのが深川八郎右衛門でした。今の大阪である摂津から一族とともに移住して、漁師を営みながら小屋を建て住みついたそうです。
慶長元年(1596)に徳川家康が鷹狩りのときに、深川八郎右衛門に「この地はなんというところか」と尋ねたところ、「ご覧のように一帯の茅原でございますから、まだ地名はありません」とこたえたそうです。すると家康は「汝の苗字をとって『深川』と名付けよ」と命じて、八郎右衛門は同郷の6人と開拓をはじめます。これがこの地域のはじまりだと言われています。
葦の生い茂るぬかるんだ場所で、苦労もたくさんあったように思いますが、自分たちで土地をつくっていくということは、とてもロマンのあること。
ここには江戸時代にはフロンティアがあったわけです。八郎右衛門はその功がみとめられて、27の町や村の名主となったそうです。そこから現在の江東区が形づくられていきます。
奥の細道のスタート地点
またリトルトーキョーの近所には、松尾場所が暮らしていた採茶庵があります。奥の細道の旅には、ここから出発しました。
それまでは日本橋に住んでいた芭蕉。清貧を志向する漢詩文のなかにしか、生きている実感が得られなかったようで、時代や時流とともに歩くことから離れて、この深川の地に移り住んだそうです。
その翌年に門下から、バナナによく似たバショウの株を贈られたこともあって、名前を「芭蕉」としました。
ただ、さらにその翌年には住んでいた芭蕉庵が大火によって全焼。知人や門下によって、芭蕉庵は再建されたそうですが、家に住むことの虚しさを感じたようです。
それ以来、さすらうことへの思いが強くなっていきます。表現もまた、技巧を極めようというものから、心や本質にせまっていくものになります。51歳の生涯において、このころから晩年までの10年によってたくさんの秀作が生まれ、名を残しました。
現代の清澄白河にも、新しい感性をもった人たちが次々と移り住んでいて、なにか縁のようなものも感じます。ここにはいつの時代もフロンティアがあるのかもしれません。
次回は現代の清澄白河を紹介します。
(参考文献)
『深川を読む ー新旧の街の姿と土地っ子の話ー』高瀬泰英著
『江東区ゆかりの人々』江東区教育委員会
『芭蕉』饗庭孝男著
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