メンバー紹介2人目!「子どもの遊び場から始まった、本当の居場所の物語」
vol. 4 2020-10-23 0
「子どもの遊び場から始まった、本当の居場所の物語」
奥冨裕司(ユウジ)
ぶんじ寮の程近くに、今年の3月まで"冒険遊び場"という子どもの遊び場がありました。
その名の通り僕たちの冒険(危険を冒してでも"やってみたい")心をくすぐる、全てが手作りのカオスな場所でした。同地で約36年続いた、日本で最も古い冒険遊び場(プレイパーク)の一つです。※現在は同市内の東戸倉という場所に移転しています。 冒険遊び場の特徴は、プレイリーダー/プレイワーカーと呼ばれる大人が常駐していることです。彼等は子ども達がのびのび豊かに遊べるよう、様々な工夫をこらします。その役柄は、子どもと同じ目線の友達のようであったり、誰よりも熱く子どもの声を代弁できる保護者のようであったりもします。また、遊び場と地域のコーディネーターでもあれば、遊具や倉庫、小物や遊び道具を作ったりもする遊び人でもあります。プレイリーダーは子どもが主体であることを重んじるので、指導的な態度はほとんどとりません。遊び場の利用にはお金もかからないので、例えば学校や自宅に居場所がないと感じている子も、第二の自宅という感じでよく遊びに来ていました。僕はそんな場所で約8年間、唯一の常勤として子ども達と日々を重ねました。この地域には知っている子も多く、思い出がたくさん詰まっているので、僕にとっても安心できる居場所のひとつになりました。
本当に必要なのは「冒険と安心」
そんな経緯もあるので、ちょっと”子どもの遊び”について語らせてください。
子ども達にとって本来遊びって、放っておけば彼らの活動の大半を占めるほど、自然な行為です。そして、遊びがその子なりの”冒険”に差し掛かった時、すなわち「目の前の山を乗り越えたい」というような挑戦であるたびに、それがどんなに小さな山であっても、子どもは身体的にも情緒的にも自ら成長するんです。つまり”その子ども自身が望んでいる発達”に関して言えば、その子の冒険心を尊重する以外に大人たちができることって、大してないんです。とは言え、彼等が心の底から思いきり遊ぶためには、その土台に”安心”が必要です。安心というのは「自分は頭ごなしに否定されないぞ」という、基本的信頼感のことでもあります。発達心理学者のエリクソンの言うこの基本的信頼感を子どもが獲得するには、その家族はもちろんのこと、その子が住み暮らす地域の大人の理解と協力は欠かせないと思います。 先んじて、今回のプロジェクトの中心人物の一人であるクルミドコーヒー の影山知明さんが、「冒険と安心」というキーワードでぶんじ寮のコンセプトを文章にしてくださいました。一見相反するこの二つのワードですが、僕もまた「子どもが生きがいを感じながら生きてゆく為に、最も必要な二つの要素」として着目してきました。まず"安心”については、"自信"と言い換えても良いものと考えています。その生育環境で信頼感を築けた子どもは、その子の周りの人がそうするように、当たり前の事として自分を信じることができるでしょう。そして"冒険"は、その安心の上でこそ成り立つであろう、言うなれば"目を輝かせて生きる動機”です。ちょっとしたリスクを冒してでも挑戦し、追求したくなる。ワンダーランドへの強い欲求は、揺るぎない未来への希望です。
でも、現場の子ども達は・・・
『冒険と安心』というテーマが僕の中で浮き出てきたのは、やはり子ども達と遊びを通して関わる中で、ぽろっと出たその言葉や表情を間近で見れたからに他なりません。思い返せば、彼らは遊び場でとても重要な事を呟いています。
例えば、「ここ(遊び場)を一歩踏み出たらボク(不安で)緊張するんだよ。」と言った子がいました。非常に感性の鋭い子です。安心を求めていたんですね。
「オレたちには『挨拶しろ!』って怒鳴るくせに、大人は挨拶しないじゃん。」と言った子どもは、社会の様々な矛盾点に気づいていたようです。すでに大人への不満と諦めが蓄積しているようでした。
「ここが一番素(の自分)が出せるんだよね。」というような事を言った子は、実は何人もいます。実際、学校で見る彼らと冒険遊び場での彼らは全然違います。学校では品行正しい優等生が、遊び場では僕に挨拶がわりに思いっきり”蹴り”を入れてきたり。それは僕のことが嫌いなんじゃなくて、彼にとっては大事な挨拶の作法。そうして本人の中でなんとかバランスを取っているんでしょうね。
「オレ、ここ(遊び場)がなくなったら遊ばなくなると思う」。近所の公園でボールが使えなくなったのを受けての発言でした。近隣住民からの苦情が担当課に行き、そこからの決定はあっと言う間でしたね。これにはみんなガッカリしていました。
「"ゲームなんかやらずに外で遊べ"って言われるけど、外でゲームより楽しくなるくらい思い切り遊んで良いなら、とっくに遊んでるわけだが?」「だってここ(遊び場)以外でやれることなんて限られてるじゃん」。確かにその通りです。「"そんなことは当たり前だろ"って言われるんだろうけどさっ」。
日本で最初の有償プレイリーダーとなった天野秀昭さんが、子どもの遊びについて「(A)危ない、(K)汚い、(U)うるさい」、その頭文字をとって「A.K.U.」と表現しました。あらゆる制限を取っ払った冒険遊び場の子ども達は、まさにそんな情景の中で生きています。
そんな彼等のA.K.U.を街の人々が面白がってくれたり、彼らが身に余る(目に余るじゃなくて)悪さや危険を冒していたら丁寧に諭してくれたり、ずっと一人でウロウロしてる子を見かけたら「どうした?」と声を掛けてくれたり、そこに何がしかの気づきを得たり、与えたりしてくれたらとても素敵なのですが、残念なことに今はそういう大人でさえ、”不審者"として扱われる事も珍しい話ではありません。
それなりの理由があるにせよ、社会が子どもを信用しないものだから、子どもたちもすっかり大人を信用しなくなってきているように感じます。
ぶんじ寮に出来ること。
すみません、ここでようやく本題に戻ります。ここまで、僕がプレイリーダーとして見てきた子ども達の実態や、遊ぶ事の大切さみたいなことを書いてみましたが、だからといって「街の大人はもっと子どものワガママ、ありのままを受け止めるべき!」なんて言いたいわけではないのです。
昔と今では条件がまるで違うので。「後から引っ越して来たくせに保育園がうるさいとか言っちゃダメだろ!」とか、「道路族なんて言わずに、道遊びくらい許容しろ!」という事でも、ありません。(いや、用水路でちょっと外来種釣るくらいは見逃して欲しいんですが・・・でも、そういうことが言いたい訳ではないです。)
僕は子どもの権利を主張しますが、「子どもと距離をとる必要のある大人は普通にいる」という事を、ないがしろにするつもりはありません。
ただ「現状、子ども達の冒険も安心も、足りてるとは全く言えない」という僕の持論に少しでも共感いただけたのなら、「だから一緒に少しだけ、街の空気を変えませんか?」と呼びかけたいのです。
ぶんじ寮のコンセプトに共感して、そこに住み暮らすようになった大人達と、地域の子ども達が織りなす日常は、きっと街の空気を弾ませるでしょう。入居すれば皆その地域の当事者になるので、彼らのフィールドは寮内にとどまらず、街全体に広がるはず。
もちろん、課題はたくさん出てくると思います。それでもぶんじ寮なら、例えば一方的に誰かを非難したり隔離したりするのではなく、協力しあって住み分ける工夫を考えたり、対話を積み重ねて自分たちで調停することもできる。さらにそれを(許される範囲で)物語として僕たちが語り繋いでゆく事で、そこで弾んだ空気を緩やかに広げてゆける。寮の運営には地域の仲間たちが、僕を含めて現在14人います。いずれも曲者揃いですが、その分適材適所で必ず助けになるはずです。それに、きっと協力者はこれにとどまりませんし。ぶんじ寮を支点にすれば、”お互い様”と言える空気が本当に街に広がると思うんですよ。地域の、街の、世界の空気を少しだけ、変えませんか。これは、子どもも大人も、僕も貴方も、人生をもう少し豊かなものにするための本気の遊びです。ぜひご一緒に。
■奥冨裕司(ユウジ)
冒険遊び場のプレイリーダーとして、子どもの”ど真ん中”と付き合い続けて9年。子どもが安心して遊べる社会を目指して、都内複数の遊び場作りに参画。また、子どもの遊び、育ち、心理についての講話多数。実は元重度の引きこもり。不登校、摂食障害と鬱で子ども時代を過ごし、”境界性パーソナリティ障害”という病気と共に日々を重ねながら、子ども時代に思いっきり遊ぶことの大切さを伝えている。