『霊的ボリシェヴィキ』公開直前イベントレポート・後編!
vol. 5 2018-02-07 0
いつも『霊的ボリシェヴィキ』の応援ありがとうございます。いよいよ渋谷での公開まであと3日となりました。
渋谷ユーロスペースでは21:00〜の上映となりますので、忘れずにお越しください。
また、上映関連イベントも決まりました。
2.10(土) 初日舞台挨拶 登壇:韓英恵さん、巴山祐樹さん、長宗我部陽子さん、高木公佑さん、近藤笑菜さん、伊藤洋三郎さん、河野知美さん、高橋洋監督
2.14(水) 黒沢清監督(『散歩する侵略者』『クリーピー』)と高橋洋監督のアフタートーク
2.17(土) 声優の近藤隆さん(ホラーファン、怪談ファン)と高橋洋監督のアフタートーク
2.21(水) 武田崇元さん(霊的ボリシェヴィキ提唱者)と高橋洋監督のアフタートーク
その日にしか見れないトークとなっています!是非お越しください。
今回は、1/30にLOFT9Shibuyaに行われた公開直前イベントの高橋監督によるレポートの後編を掲載します。是非お読みください。
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さて、後半戦は、「百物語という降霊術」のいわば実践版ともいうべき展開となった。(木原さんには同じお題でパンフにコラムを書いて貰っているが、この「百」という数字がヨーロッパの近代心霊主義の中でも実に意外な形で登場している。そしてそれは「ポルターガイスト」なる用語の起源とも繋がってゆくのだ…)
と言っても、通常の怪談ライブのように順番に怪談を語っていけばいいというのではない。あくまでオカルト・ウンチクを語る中からジワッと感じられる怖さを目指さねばならないのが今回のイベントの難しいところだ。
ここはまずさっきの「古代の神々の復権」に絡めて、木原さんの持ちネタの中でも武田さんが大いに興味を持ったネタを語っていただこう。
それは『新耳袋』の記念すべき「第一夜」に収められた地下から発見された謎の小部屋の話だ。完全に封印された三畳間ほどの空間。一体誰が何のためにこんなものを埋めたのか…? その床の間に当たる部分には赤く丸いシミのようなものが描かれていたという。一見日の丸のようにも見えるがそうではない、赤いシミ…。しかも、後日談として、この話を読んだ人からまったく別の地方でやはり地下から同じような部屋が発見されていたという報告が入ったと言う…。
ただそれだけの話とも言える。まったく捉えどころがないような…。だが、この話が20年以上に渡る『新耳袋』の歴史の中でもずっと人々の心に引っかかっているのは、その何かに触れてしまったような感触にあるのだ。
そして今回のイベントでも、『霊的ボリシェヴィキ』でも重要となってくるのはこの独特の感触なのである。
しかし、これが何で「古代の神々の復権」と繋がってくるのか?
何か、地面を掘り返すことと関係があるような…。
たとえば考古学者のシュリーマンがトロイア遺跡を発掘した話が、自分には怖いものに思えてならないのだ。なかなか理解されにくいのだが…。
ポイントはシュリーマンがホメロスの叙事詩を読みながら、誰もがそれが神話の中の物語だと思っていた時代に、「これは本当にあったことだ」と直覚したことにある。これって怖くないだろうか? いや、『古代への情熱』のシュリーマンはこの直覚に素直に胸をときめかせたのかも知れない。しかし神話であったものが突如、現実へとせり出してくる感覚に恐怖を覚える、ラヴクラフトのような想像力のタイプもこの世には存在しているわけだ。しかもシュリーマンは土中を掘り進み、本当に遺物が現れてくる現場に立ち会ってしまったのだ…。
木原さんもまったく同じような感覚を覚えたことがあると言う。ツタンカーメンの呪いで知られるカーナボン博士の発掘現場を再現した展示に足を踏み入れた時、遺跡を発見した瞬間のカーナボン博士の視線とシンクロしてしまったような…。
我々は合理的に語るのが難しい領域に踏み込んだようだ。
こういうまるで断片的な比喩を積み重ねていくことでしか語れない領域に…。
武田さんは再びルネ・ゲノンに話を戻し、中世のテンプル騎士団の壊滅(1314)こそがヨーロッパの精神文化の衰退を決定づけたというゲノンの説を紹介する。それはすなわち超越的なものへの感覚の消滅を意味するのだ。そしてこの「超越的なもの」への感覚こそが「霊的」なるものと深く繋がってくるのではないか? “霊的ボリシェヴィキ”の“霊的”とは、ただ“ボリシェヴィキ”にくっついたのではなく、ボリシェヴィキ革命というあり得ない事態を引き起こしてしまあったその大元に潜む不穏なるものだったのかも知れない。ルネ・ゲノンやユリウス・エヴォラが太古への回帰にこだわるのは、ここに世界を更新するようなパワーの源泉があると考えたからだろう。
「中世と言えば」と木原さんは映画の話へと繋げていこうとする。
映画の中で韓さん演じる由紀子が語っていたある恐ろしいエピソード、あの背景にはジャンヌ・ダルクの火刑が絡んでいるのだ。(木原さんはジャンヌ・ダルク火刑の地、ルーアンにも足を運んでいる)
「ひええええ!」と韓さんが叫んだわけではないが、その表情はいつの間にかそんな不吉な台詞を喋っていたのか私は、という感じだ。
といっても、客席を埋める大多数の映画を見ていないみなさんには何のことか判らない。かといって捕捉すればネタバレになる。
ここは是非とも映画を見た上で補完していただきたいところだ。
忘れてならないのは、ジャンヌ・ダルクは「超越的なるもの」と直接交信してしまったものだということだ。山岸凉子『レベレーション』に描かれているように、それは、異端裁判にかけられたことによって「人類史上最も克明に記録された超常現象」となったのである。テンプル騎士団壊滅からおよそ100年後に処刑(1431)された彼女もまた「超越的なるもの」との感覚と共に滅ぼされたと言えるかも知れない。
そんな崇高な話から話題はいきなりキンタマに転じた。
かつて80年代末に「GS楽しい知識」の「神国/日本」特集号に武田さんたちが調査した実に異様な写真が載っていたのだ。
それは神社本庁の系列からも離れたとある神社のご神体の写真なのである。
このご神体は神の骨、“御神骨”なのだという。神の骨って…、もうわけが判らない、思考不能の領域だ。またもや我々はディープオカルトの世界に踏み込んだのだ。かつて人々が恐竜の存在を知らなかった時代に、地中から巨大な骨が発見された時、ふっとタイタン族の骨ではないかと思ったという、さっきのシュリーマンの話と同じく、あり得ないものが物質として目の前に現れたようなゾワッとくる感覚、“霊的ボリシェヴィキ”について思考するとはこの感覚と共にあることだ。その“御神骨”はあまりにも異様な形態をしていた…。
「一体どんな形なんですか?」。しばし沈黙していた白石監督が、さすがは自作で次々と異形のクリーチャーを生み出して来た人だ、鋭い眼差しで聞いてくる。
強いて言えば、巨大なキンタマとしか…言いようが…。
「え、古代の神のキンタマが!」
いやいや、決してキンタマがそのものが化石化してるのではなく、そうとでも言うしかないある異様な形態ということで…。
ポイントは、いわゆる「偽史文献」にも言えることだが、たとえ、インチキの捏造だとしても、人々が必死な思いで作らざるを得なかったものが、いい知れぬ歪さを孕んでいるというリアリティなのだ。古代の何ものかに触れる想像力とはこういうものなのだ…。
ここで韓さんへの質問コーナー。会場から事前に集められた質問用紙に韓さん自らが答えていく。現場で怖かったこと、辛かったこと、監督の演出について…。(この辺もパンフのインタビューと重なるのでぜひパンフをお読み下さい!)
すると、途中から韓さんは意外なことを話し始めた。実は少女時代(ということは『ピストルオペラ』に出ていた頃か?)、韓さんは妖精に夢中になって妖精関係の本を集めていたのだと言う。少女が夢見るようなティンカーベルのような可愛い妖精ではない、韓さんはその頃から妖精の実像とはもっとおぞましいものだという想像力に触れていたのだそうだ。
おお、映画を見ていない人にはこれもさっぱり判らないだろうが、『霊的ボリシェヴィキ』はコティングレーの妖精写真と深くリンクしているのである。
早速、木原さんが反応し、妖精の本場、アイルランドで取材して来た話を披露してくれた。何でもアイルランドの田舎には連なる家々の傍にまるで小さな犬小屋のようなプラスチックの空の箱が置かれているのだそうだ。それは妖精のための小屋なのである。アイルランドの人々は妖精の存在をごく当たり前に信じている…。
何か、さっきの土中から発見された空の部屋に通じる、不吉な妄想を煽り立てる話である。空のもの、仮のもの、何かの代理、身代わり…。人形怪談にも通じるヤバい案件であり、ひょっとしたら不吉な儀式を呼び覚ますのは、そうした「虚の器」なのかも知れない。そしてこの発想は大本教が言うところの「型の思想」とも深く響き合うのではないかと武田さんは語る。現実界で起こるある「型」が神界とシンクロして再び現実に波及し、現実を変化させる。そこに大本教ならではの“霊的革命”の可能性が見出されていたのだ。
かなり凄い話になってきたところで時間ももう残りわずかとなった。
武田さんはそれ以外にも、映画を第七芸術として宣言した(「第七芸術宣言」)サイレント時代の映画理論家、リッチョット・カニュードのオカルト的背景に触れ、映画という表現形式そのものに孕まれるオカルト性についての論点も出してくれたが、時間切れ。しかし、武田さんがTwitterで呟いた「かつてゴダールは政治映画を撮るか、映画を政治的に撮るかと問うたが、『霊的ボリシェヴィキ』はホラー映画ではなく、映画をホラーとして撮った」という指摘は、まさにこの論点と切り結ぶもので、今後も深めていきたいテーマである。
木原さんがまとめてくれた。
“霊的ボリシェヴィキ”は“心霊ボリシェヴィキ”ではなかったところに大きな意味がある。“霊的ボリシェヴィキ”が扱おうとしているのは人間出自の“心霊”ではなく、もっと得体の知れない何ものかなのだ。それを今日はとりあえず、古代の神々や妖精と呼んでみよう。しかしその実体は誰にも判らない…。
一言付け加えるならば、“霊的ボリシェヴィキ”の“霊的”とは普段考えられないレベル、思考不能のレベルへと踏み込むためのトリガーなのかも知れない。古代の神々や妖精を大真面目に信仰の対象にするのではなく、トリガーとすることがエヴォラたちオカルト思想家が取り組んだ道なのではないか。そして“霊的”に触発されたある不穏な力がかつてロシアではあり得ないはずの革命を引き起こしてしまったのだ。
最後は木原さんに19世紀に起こったハイズヴィル事件と並ぶもう一つの重要な心霊事件、“ネリー・タイタス事件”で締めてもらった。
突如、行方不明になった少女、失踪事件とはまるで関係ない主婦、ネリー・タイタスの夢に現れたもの。きわめて古典的な事件だから、聞いている人たちも展開は読める。だが木原さんの語りは判っているはずの展開がその場にいるような迫真性を持って伝わってくるから怖いのだ。物語の核心部分で韓さんが思わず「怖い!」と叫んだように。事件の詳細を知りたい人は『幽霊を捕まえようとした科学者たち』をお読み下さい。でも、木原さんの語りで生にこの事件を知った人たちはお得です! なお、これと類似した例は、作家の牧逸馬が『世界怪奇実話』の「双面獣」事件で報告しているのでそちらもぜひ。心霊事件とは言いつつ、これは判りやすく幽霊が出ましたという話ではない、得体の知れない何かに触れてしまっていることで、今回の霊的決起集会の最後を飾るにふさわしいエピソードであったと思う。
ゲストのみなさん、観客のみなさん、おつかれさまでした!
(*ここまで読んでくれた人たちのためのオマケ。武田さんが自制したオッセンドヴスキーについても手短かに触れておこう。オッセンドヴスキーはポーランドの探検家で、その旅行記には中央アジアで奇妙な都市を見かけたことが報告されている。その都市の描写は、神秘思想家サン=ティーヴが謎のアジア人から告げられた謎の都市“アガルタ”と酷似していたのである。むろん剽窃の疑いがかけられたが、それでは説明のつかない細部があり、今でも真相は不明である…。今日のイベントでずっとテーマになっていた、あり得ないものがふいに現実として現前することとも繋がる不可思議な話なのであった)
以上
高橋洋
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